18 阿麻美許曽神社と渡来人

阿麻美許曽神社の画像

本殿前の一対の狛犬台座に「天見山」「阿闍梨快道之代」(文化4年9月)の銘があり、神仏習合がわかる

天美の地名の由来となった氏神社

 河内天美駅を出た近鉄電車が大和川を越える手前、西側を見るとうっそうとした森が目に入ります。それが阿麻美許曽神社です。

 同社は下高野街道に面し、鎮座地は大阪市東住吉区矢田ですが、松原市天美地区の城連寺・油上・芝・池内の氏神です。天美という地名も阿麻美許曽に由来すると思われます。

 「許曽」とは珍しい呼び名です。その語源は、朝鮮半島の古代国家新羅の言葉からきたようです。「許曽」は新羅で祭祀や神社の森を意味します。新羅神話によると、神社の起源は、新羅の初代王赫居世を祀る祖神廟からおこったと伝えています。赫が名で、居世はその治世をさす尊称ですが、この居世がなまって「許曽」となったといわれています。

 「許曽」名をもつ神社は、全国に百数十社を数えます。各社は朝鮮半島から来た渡来人が、自分たちの祖先を祀って創祀したものが多いと考えられます。 阿麻美許曽神社は、延喜式内社で、社伝によると平安時代初期の大同年間(806~809)の創建と伝えていますが、その由緒はもっと古いでしょう。

 7~8世紀ごろ、天美地区は河内国丹比郡依羅郷とよばれ、依羅連という氏族の居住地と想定されます。依羅連は、「新撰姓氏録」(9世紀初頭成立の氏族名簿)によると、「その祖先は、(朝鮮半島の)百済の国人で素禰志夜麻美君である」と記しています。
 つまり、依羅連は朝鮮半島からやってきた渡来系氏族でした。同氏の祖先とされる素禰志夜麻美君の「夜麻美」がなまって「阿麻美」となり、現在の「天美」に転化したと推察されます。元来、依羅連の祀った氏神が阿麻美許曽神社の創祀と考えることができるでしょう。

 同社は素戔鳴命を主神とします。一説には、この神は、飛鳥時代の斉明天皇2年(656)、新羅の牛頭山から京都祇園の八坂神社に移されていましたので、牛頭天王ともよびます。

 境内には、明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺がありました。廃仏毀釈で寺は廃されましたが、今でも同寺山門は境内出入口となっており、神仏習合の景観がしのばれます。

 手洗舎の東側には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っています。確証はありませんが、天見山宮寺に奈良時代の僧、行基が居住していたという伝承が江戸時代ごろからあります。行基は、百済系渡来人の高志氏(堺市家原寺が本貫地)の出身であること。さらに、行基の師僧である道昭が丹比郡の人で、百済系渡来人の船氏の出身であることから、百済系渡来人の依羅連と結びついたのでしょうか。

 今も同社西側の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのも、こうした行基居住伝承が残るからです。行基は、「行基年譜」によれば松原近辺に狭山池院や石原布施屋を造り、布教や社会事業を広めたのでした。

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