58 河内生まれの大橋龍慶

大橋龍慶像の画像

大橋龍慶像
龍慶は本像完成3年後の正保2年(1645)、64歳で亡くなった。
子の重政も右筆となり、大橋流を樹立した。

徳川将軍秀忠・家光の右筆となった能書家

桃山期から江戸初期にかけて、書家として活躍した1人に大橋龍慶がいます。龍慶のご子孫が江戸時代以降、河内国丹北郡三宅村、いまの三宅中5丁目に居住しておられることから、平成9年に大橋家から龍慶像や同家文書が松原市に寄贈されました。

龍慶は、織田信長が京都の本能寺で倒れた天正10年(1582)、河内国志紀郡古室村(現藤井寺市)に生まれました。幼名を勝千代といいます。父の左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていましたが、天正12年に豊臣秀吉が徳川家康と長久手(愛知県)で戦った際、戦死しました。龍慶は3歳で伯母にひきとられ、秀次の知遇で11歳の時、京都南禅寺に入り金地院崇伝に教えを受けたのです。

秀次の死後、元服(16歳)して長左衛門重保と名のります。やがて片桐且元に従ったのち、31歳の時、豊臣秀頼の右筆(書記)となりました。しかし、豊臣氏が滅んだことから、徳川氏に仕官するようになり2代将軍秀忠、3代将軍家光の右筆に任じられたのです。

52歳で右筆を辞した後、剃髪して名を龍慶と改めて子の長左衛門重政に家督をゆずりました。まもなく、家光から江戸牛込に 30町余の地を賜り、邸宅前の江戸川に龍慶橋・大橋を渡して家光の御成もうけました。

寛永18年(1641)1月、龍慶は60歳の還暦にあたり、故郷河内の氏神社である誉田八幡宮(羽曳野市)の宗廟縁起を修復して同社に奉納しました。また、3月には常灯籠も奉納し、いまも拝殿前に祀られています。

翌年、牛込にある神木の榎が大風で倒れたので、重政は奇異霊端を感じて同木で龍慶寿像をつくることにしました。藤原真信に細工をさせて、龍慶自身が今日に至るまでの事歴を像背面に草書混じりの楷書で記しました。銘の終わりには龍慶が尊敬した沢庵和尚の偈も添えられています。

龍慶像は高さ1メートルの立膝の坐像です。写実的な面貌は、彼の面影に忠実なものでしょう。とくに、頂の偏平な頭、見開いた眼に特色があります。

寛永19年5月、龍慶像は完成して誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置されました。

寛永21年2月には、龍慶愛蔵の刀剣・経巻など36点も同社に寄進されました。龍慶が誉田八幡宮を崇敬したのは「同社が徳川氏の守神であり、大橋氏の故郷の霊神によるため」と龍慶像銘文に記されています。

もっとも、明治初年に神仏分離令が出されたので、僧形姿の龍慶像が誉田八幡宮から三宅村の大橋家に移されたのです。私たちは、大橋家のご好意で市民共有の文化財となった同像を大切に守っていかなければならないでしょう。

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