106 高見村惣道場の敬念寺

更新日:2018年12月13日
敬念寺の写真

敬念寺(高見の里3丁目)
山門ごしに太鼓楼が見える。
山門西側には市域最古の道標である天和2年(1682)銘の追分地蔵尊が祀られている

正徳3年の棟札が語る真宗寺院の本堂の由来

 現在、市域には江戸時代から続く寺が50近くありますが、その中で現存最古級の建物の一つに、高見の里3丁目の敬念寺があります。同寺は浄土真宗大谷派で、恵日山と号します。戦国時代の天文元年(1532)に創建されたと伝え、河内国丹北郡高見村の惣道場でした。
 敬念寺には、江戸時代中期の正徳3年(1713)5月3日付けの棟札が残っており、それによって、本堂がその時に再建されたことがわかります。
 もともと浄土真宗の本堂の多くは、茅や藁葺きの民家とそれほど変わらない建物でした。それが、18世紀中期ごろから組物や虹梁などを採用して、今みられるような寺院建築へと進んだようです。
 本尊の阿弥陀如来像を祀る仏壇も最初は一列あるいは三つ並び仏壇でしたが、18世紀後半ごろから現在のように内陣に後門を設ける出仏壇へと移っていきました。敬念寺本堂も、もとは三つ並び仏壇でしたが、のち、出仏壇になったことが調査で判明しています。
 ところで、この棟札は当時の看主(道場主の僧)である恵賢が記したものです。それによると、「河州丹北郡高見村敬念寺は浄土真宗の道場として往古よりの佛閣たり」と書き始めています。次いで、豊臣秀吉が政権を握っていた文禄3年(1594)、検地奉行の長束正家が行った太閤検地で、敷地は租税を免除されて除地になったとあります。やがて、江戸時代前半の延宝年間(1673~80)、本山の東本願寺15代、常如によって敬念寺の寺号が許され、「斯の如く相続して正徳三年五月ニ再建する所也」と結んでいます。
 この時の作事者は、棟札に「大工棟梁藤原氏村田喜左衛門安次、藤原氏村田安右衛門好廣、藤原氏伊藤文左衛門宗次」と書かれています。彼らは隣村の松原村新堂の人といわれ、名門藤原氏を名のるなど、平大工を統率する棟梁大工の格式がうかがえます。江戸時代、現在の新堂には新堂組という大工集団が住んでおり、各地の建築を請け負ったことが普請文書にも見られます。
 恵賢が記した棟札は、高見村庄屋の茂兵衛や年寄の吉右衛門・傳右衛門によって当時の大坂町奉行所の北条安房守と甲斐飛彈守、および高見村の領主であった旗本の小出主計あてに書かれたものです。ちなみに元文2年(1737)の史料では、この頃、小出氏は高見村の他、城連寺・池内・芝・我堂・堀・高木・清水・更池・向井・田井城の各村も支配していました。
 また、本堂正面東側の大太鼓をおさめた太鼓楼も寺観を添えています。この建物にも明治12年5月の再建棟札が残っており、建立時期がわかります。太鼓楼再建の数年前の明治7年、高見村は戸数五55軒、人口266人でしたが、村人の総意によって檀家寺が整えられていったのでした。

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