215 阿保茶屋の風景

更新日:2018年12月13日
阿保茶屋の写真

阿保茶屋 北から南を撮影。長尾街道と中高野街道が交わる。手前が阿保、向こうが上田。

元禄8年銘

阿保茶屋村銘

反正山地蔵堂の鰐口 (反正山地蔵講蔵) 鰐口は、堂正面の軒下に吊るす金属製の音響具。

阿保茶屋門徒に下された御文の写真

阿保茶屋門徒に下された御文(阿保茶屋十七日講蔵) 御文とは、本願寺八代蓮如の消息集。

昭和30年の「松原市全図」 阿保茶屋の地名が見える。

ふるさとぴあプラザ提供

長尾街道・中高野街道交差点人々が行き交う阿保茶屋村

 河内松原駅から北へ、にぎやかな通りを少し行くと、東西を走る道と交差します。南北の道は、平安時代以降、高野山(和歌山県)方面に向かい、中高野街道とよばれています。一方、東西の道は七世紀ごろには敷設されていたらしく、近代以降、長尾街道の名が定着してきました。

 この四つ辻は、古代以降の重要な街道が交差する要衝の地で、江戸時代、長尾街道の南は丹北郡松原村上田で、北側は阿保村でした。もっとも、上田の本村は今の河内松原駅の南側で、阿保村の集落も阿保神社周辺にかたまっていました。

 このため、江戸時代の絵図には、交差点の南側は「上田出郷」、北側は「阿保村出在家」とか「阿保茶屋」と記されているものもあります。四つ辻は、両村の出入り口ですが、商いや参詣人の往来が盛んでしたので、休憩する人々のために茶屋などが並んでいたようです。ですから、交差点付近は阿保茶屋とよばれ、集落は阿保茶屋村とも称されることもありました。阿保茶屋の読みは、阿保は「あお」ですが、「あおちゃや」ではなく、「あおんちゃや」と「ん」を入れて読むことに注意して下さい。

 すでに阿保茶屋村の名は、上田五丁目の反(は)正(じ)山(やま)地蔵堂(「歴史ウォーク」127)に保管されている鰐口に刻まれた銘に見られます。そこには「元禄八年亥(い)九月七日」「松原ノ内阿保茶屋村」とあります。松原は上田・新堂・岡の三地区で構成されていますが、元禄八年(一六九二)、阿保茶屋も独立性を持った松原の一村として、認識されていたことがうかがえます。

 阿保茶屋村銘の鰐口が上田の反正山地区の地蔵堂に現存している経過は、両村の檀那寺が真宗大谷派の願正寺(上田七丁目、「歴史ウォーク」136)ですので、共有されたのかもしれません。

 享保二十年(一七三五)に発行された河内国の地誌の『河内志』にも、丹北郡の村として、松原村植田(上田)・新堂・岡や阿保村と並んで、阿保茶屋村が記されています。阿保村と松原村の出入口の意味を持つ「阿保松原ノ荘出戸」の注記もあります。

 下って、天保三年(一八三二)十一月二十八日、願正寺の本山である東本願寺二十世の達(たつ)如(にょ)が阿保茶屋の門徒に出した御文にも、「願正寺河州丹北郡松原庄茶屋村 本山十七日講中」と見られます。

 願正寺の檀家たちは、他の真宗寺院と同じく、講をつくっており、阿保茶屋の仲間たちは十七日講としておつとめしていました。その際、本山は彼らの地域を茶屋村と記しているのです。

 明治時代以降も、阿保茶屋は松原村の交通の中心地として、地域の記念碑や村内・街道を守る地蔵堂が再建されるなど、コミュニティの場としても活用されました。

 交差点の西南角に、明治三十九年(一九〇六)五月に建立された「日露戦役記念碑」が見られます。日露戦争(明治三十七~三十八年)に松原村から出兵した軍人たちの名前が刻まれています(「歴史ウォーク」103)。また、昭和天皇の即位を祝って、松原村が昭和三年(一九二八)十一月に建てた「御大典記念」「松原村分会」の標石もあります。さらに、昭和十年(一九三五)四月には、満州事変などで亡くなった松原村の人々の「忠(ちゅう)魂(こん)碑」も建っています。

 これらの記念碑の南側には、阿保茶屋の地蔵堂があり、堂内には昭和四年(一九二九)八月二十三日のお盆に再建されたことを記す台石の上に子安地蔵が祀られています。

 昭和三十年(一九五五)、松原市が誕生した際、市が作った「松原市全図」に交差点の周辺に阿保茶屋の地名が見られます。今では地元の人以外、阿保茶屋の名を知る人は少なくなってきました。歴史的由緒を持つ阿保茶屋の名称を将来にも残すため、いろんな所で地名として使用されることが望まれます。

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