8 大王墓の河内大塚山古墳

更新日:2018年12月13日
西大塚1丁目に所在する河内大塚山古墳の画像

西大塚1丁目に所在する河内大塚山古墳(松原市史編纂室)

古市古墳群最後の巨大前方後円墳

 近鉄電車が松原駅を出て、恵我之荘駅へ向かう途中、南側にうっそうとした小山が目に入ります。府道大和高田・堺線が線路を越える高架上からは、いっそうその全容が望まれます。これが大塚山古墳です。各地に大塚山とよばれる古墳が多いので、ふつうは地名をつけて河内大塚山古墳と称しています。

 大塚山古墳は、東除川の西側に発達した中位段丘面に築かれており、墳丘の南北を走る中軸線を境に、西は松原市西大塚、東は羽曳野市南恵我之荘とに行政区域が分かれています。人工の造山ですが、後円部頂上は松原市内で最も標高の高い場所です。

 古墳の形は前方後円墳とよばれるもので、周囲に壕をめぐらせています。その墳丘規模は、全長335メートル、前方部幅230メートル、後円部直径185メートル、前方部高さ4メートル、後円部高さ20メートルをはかり、前方部はほぼ北面しています。

 規模の大きさからすると、百舌鳥(もず)の大仙陵古墳(仁徳陵古墳)、古市の誉田山(こんだやま)古墳(応神陵古墳)、百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、岡山県の備中造山古墳に次ぐわが国で5番目の巨大古墳です。当時、墓誌などがなかったことから、古墳の被葬者を特定するのは難しいのですが、大和王権の大王(のちの天皇)の墓と考えてよいでしょう。
 古墳時代は3世紀後半から8世紀初めごろまでの時期をさしますが、大和や河内地方を中心に巨大前方後円墳がつくられるのは、ほぼ6世紀後半ぐらいまでです。

 大塚山古墳は、後円部に今でも「ごぼ石」とよばれる横穴式石室の天井石と思われる巨石があり、その上、江戸時代の18世紀後半の宝暦から明和年間ごろまで「磨戸石」とよばれる横穴式石室の一部が後円部南東に開口していたことが、文献の上から判明しています。また、埴輪の存在が明瞭ではありません。さらに、前方部が低く、大きく広がるうえ、後円部の段築がはっきりしません。

 これらは、後期古墳の特徴を持っていますので、その築造は6世紀中葉かそれ以降と考えてよいと思います。古市古墳群につくられた巨大前方後円墳の最後の時期の古墳です。

 この時期、大和では欽明大王の墓と想定される巨石の横穴式石室を持つ巨大前方後円墳(全長318メートル)の見瀬(みせ)丸山古墳(橿原市)が築造されています。大王家では、河内大塚山や見瀬丸山の巨大前方後円墳を6世紀後半ごろに築造して以後、前方後円墳はつくられなくなり、方墳や八角形墳形式に変わっていくのです。 

 大塚山古墳は、中世には丹下(たんげ)氏によって丹下城が墳丘内に築かれました。また、江戸時代には前方部に大塚村の集落が形成され、後円部には天満宮が祀られました。しかし、大正14年に陵墓参考地となりましたので、昭和の初年までに集落は墳丘外に移されました。

 現在、宮内庁が管理をしており、自由に墳丘内に立ち入れず、学術的な発掘調査は行うことは出来ません。

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