牛滝さん(丹南5丁目)牛神を祀る。左は昭和46年当時の牛滝さん。樹木が茂り、田畑に囲まれていた(松原市郷土史研究会「松原の史蹟―丹南編」より。昭和47年)。
牛の神を祀る段の神さん 農作物の収穫を祈願する
市域最南端、丹南五丁目の小字「段」に牛滝さんが祀られています。地元では、段の神さんとよんでいます。丹南の産土神である丹南天満宮(丹南三丁目)の南方にあたります。今でこそ、周りは住宅などが建っていますが、すぐ西や南は一面の田畑が広がり、灌漑用水路も巡っています。
牛滝さんは、小円丘あるいは小方丘と思われる人工の高まりに祀られているのです。同地は、縄文時代から近世に至る丹南遺跡に含まれ、付近から古墳時代の埴輪も見つかっていますので、小丘はもともとは古墳だったかもしれません。
元文五年(一七四〇)四月に書かれた「河州丹南郡丹南村明細帳」に「当村南ニ牛神境内三間弐間半 荒地」とみられることから、江戸時代半ばまでに、牛を神体として祠(ほこら)が建てられていたのでしょう。観心寺(河内長野市)から、牛神を迎えたと伝えられています。
いうまでもなく、牛は農耕に欠かせない動物でした。農家は、田畑を耕す牛を家族同様、大切にしたのです。
「丹南村明細帳」によると、元文五年当時、丹南村では、家数八十四軒、人口は三八五人。牛は二十頭飼われていました。同時に馬は一頭も飼育されず、牛馬医師もいないと記しています。
境内は近年、整備されましたが、祠の前に一対の石灯籠が建てられています。いずれも、竿石の正面に「奉献御神前」とあり、側面に天明五年」の年号が読みとれます。
天明五年(一七八五)に石灯籠が奉納されたのですが、この時期、全国的に天明の大ききん(一七八二~八八)と称するほどの天候不順が続き、農作物が不作でした。市域の村々でも、とくに天明二年から翌三年にかけて凶作にみまわれ、麦や綿などの生産が激減したのです。
丹南村では、そのためか、各社に祈願を行ったようです。牛神の牛滝さんだけでなく、丹南天満宮の境内にも天明五年四月に建立された石鳥居や、同年の「御神燈奉献」とある石灯籠がみられます。拝殿に向かって右側に末社の稲荷神社が祀られていますが、その稲荷神にそれらが奉納されています。稲荷社は、農耕をつかさどる神だったからでしょう。
丹南の農家では、耕運機が普及して、牛による田起しが少なくなった昭和三十年代ごろまで、田植え前の六月初旬(旧暦の五月五日の端午の節句)、牛を牛滝さんに連れて行きました。そして、各家の屋根にも取りつけられた、しょうぶ・よもぎ・せんだんの枝を一つに束ね、牛の角につけながら、祠のまわりを三回まわらせ、牛の健康を願う風習がありました。
また、境内は子どものかっこうの遊び場であり、今もそびえるモチの大木に名前を刻みこむことも行われました。
今では、こうしたことも無くなりましたが、地域では、天神さんの日にあたる毎月二十四~二十五日、天満宮で供え物をすると同時に、牛滝さんにもお供えをして、江戸時代以来の農耕の神さまを守り続けているのです。