199 布忍駅で確認 大正12年製レール

更新日:2018年12月13日
布忍駅上りホームに見られる刻印のある3本の支柱と屋根支えの古レールの画像

布忍駅上りホームに見られる刻印のある3本の支柱と屋根支えの古レール

1923年、テネシー社製造の刻印の画像

1923年、テネシー社製造の刻印

布忍駅の停留跡の画像

布忍駅の停留跡 道路から一段と高くなっていることがわかる。

長尾街道の布忍第1号踏切から布忍駅を望む写真

長尾街道の布忍第1号踏切から布忍駅を望む(北新町1丁目)

アメリカ合衆国テネシー社 旧大阪鉄道レールを再利用

 大正十一年(一九二二)三月三十一日、大阪鉄道道明寺 ― 布忍間にレールが敷かれ、四月十八日に営業を開始しました。現在の近鉄南大阪線です。同鉄道は、一年後の大正十二年(一九二三)四月十三日、布忍から大阪天王寺(現大阪阿部野橋)へと延伸されたのですが、それまで布忍駅が始発・終着駅となっていたのです。

 布忍駅ホームに西接して、布忍駅前駐車場がありますが、ここが、電車を停留する引き込み線でした。のち、昭和30年代前半ごろまで、貨物車の荷おろしとして利用されていました。今ではその遺構は残っていませんが、それでも道路からは一段と高まりを見せ、土盛りが施されていたことがうかがえます。

 南河内方面からまず布忍駅まで鉄道が開通したのは布忍地域が江戸時代から近代に至るまで、堺方面との結びつきが強く、堺と大和を結ぶ商業・宗教ルートとして頻繁に利用された長(なが)尾(お)街道が通っていたことも一因でしょう。今の布忍第一号踏切にあたります。

 踏切の南側で、レールが大きく河内松原駅方面に向かって東に半円を描くようにカーブしているのは、この東側に西池が水をたたえていたからです(「歴史ウォーク」122)。西池は昭和四十七年(一九七二)に埋め立てられたのですが、レールは池の堤に沿って敷かれたのです。

 先月号で、大正十二年に建てられた煉(れん)瓦(が)造りの天美車庫の倉庫を紹介しました。柏原市教育委員会の石田成年さんにいろいろと教わったのですが、その際、「布忍駅に開通当時に使われていたかも知れないレールがありますよ」ということも教えていただきました。

 長さ一三〇メートルの布忍駅ホームは支柱によって上(うわ)屋(や)が支えられていますが、上りホームのトイレの前面にある三本の支柱と屋根の支えの一本に大正期のレールが使われていたのです。四本ともレール側面に文字や数字が刻まれており、そこには製造者、レールの種類、製造時期などが示されています。

 いうまでもなく、レールは車両が走行するために敷設されたものです。それが軌道としての耐用年数が過ぎると、取り替えられた後にもホーム上屋や鉄道の跨(こ)線(せん)橋(きょう)などの構築材や柵に再利用されるケースもあるのです。

 石田さんは、柏原市内のJR関西本線柏原駅や近鉄道明寺線の柏原駅や柏原南口駅などに再利用された明治時代から昭和初期のレールを紹介しています。今では、こうした刻印に着目した調査や研究も進み、近代化遺産を考えるうえで、一つの素材を与えています。

 今回、布忍駅で確認された古レールの二本の刻名ははっきりしませんが、右端の一つと屋根の支えには、「OH  TENNESSEE-7540-ASCE-7-1923」と刻まれていました。

 日本に現存する最古級のレールは明治時代初期の一八七〇年製にまでさかのぼり、製造した国は欧米を中心におよそ十カ国、製造所は五〇にのぼるといわれています。わが国でも、八幡製鉄所製のものが明治三十四年(一九〇一)から造られるようになりました。

 布忍駅の古レールは、アメリカ合衆国製で、製造会社はテネシー(TENNESSEE)であることがわかります。同社は製鉄・炭鉱・鉄道を経営しており、アメリカ最大の鉄鋼メーカーであるUSスチールの一員でした。「OH」はレールに表示されている製造方法の記号で、「Open Hearth(平炉)」の略。「ASCE」は、アメリカ土木学会規格の断面を示し、どの重量でもレールの高さと底部の幅が等しいのが特徴です。「7540」はテネシー製に見られ、コードナンバーと考えられています。「7-1923」は一九二三年七月、つまり大正十二年七月の製造であることを示します。

 これは、布忍 ― 大阪天王寺間が開通した年のレールで、どの区間に敷かれていたかはわかりませんが、大阪鉄道時代の遺産として貴重なものでしょう。鉄道ファンならずとも、今後とも古レールの研究が望まれるのです。

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