26 布忍の地名を探る

更新日:2018年12月13日
布忍神社の画像

布忍神社 西除川に架かる宮橋から布忍神社の森をのぞむ。
江戸時代、神社前の川は布忍川とよばれた。

日本武尊の皇女は布忍出身か

  近鉄布忍駅周辺は、北・南・東新町という住居表示ですが、これらは昭和48年に実施されたもので、昭和30年の市政施行後は旧布忍村の大字として向井・高木・清水などの各町に分かれていました。

 西除川に沿った向井(北新町2丁目)の布忍神社は、旧布忍村の氏神として素戔鳴命など三神を祀っています。 高木(北新町3丁目)にある布忍寺東之坊の縁起には、「嵯峨天皇の勅願によって、弘仁5年甲丑歳(814年)に弘法大師が布忍寺の伽藍を再建した際、本堂に薬師如来、五重塔に大日如来を祀り、鎮守として牛頭天王を布忍七カ村の産土神と崇め奉る」と記しています。

 布忍寺は永興寺ともよばれ、平安時代に向井に建てられていました。もともとは、鎮守社の牛頭天王(素戔鳴命)を祀る布忍神社のすぐ西南にありましたが、明治6年に廃寺となり、現在は塔頭の東之坊が布忍寺の名を継いでいます。

 布忍の名は、布忍神社と西除川をはさんだ対岸にある大林寺(北新町1丁目)の『布忍山永興寺略縁起』に「布忍寺は、寛治3年(1089)5月に永興律師を導いた童子が白い布を以って、面をたれて人を忍んで化現した姿で現れたのでこのようによばれた。しかし、のち同寺の永く興然たることを願う故か、あるいは永興律師の草創にちなんで、永興寺とも称されたのである」とみられます。
 これとは別に、布忍神社の社記には「祭神の素戔鳴命を同社の北18町(2キロメートル)に鎮座する天美の氏神である阿麻美許曽神社(「歴史ウォーク」18)から、白布を敷いて現在地へ迎えたので、社名を布忍、村名を向井とよぶようになった」と伝えています。

 こうした伝承は、どこまで事実を反映しているか不確かですが、布忍の名は史料には随分早くからみられるのです。

 『日本書紀』の景行天皇51年8月条に、景行の皇子である日本武尊の妃や子に関して「日本武尊は両道入姫皇女を娶して妃とし、稲依別王を生めり。次に足仲彦天皇。次に布忍入姫命。次に稚武王」とあります。

 日本武尊の皇女として、布忍入姫命が記されていることが注目されます。同姫の記述はこれだけですが、父の日本武尊の白鳥陵が古市に、兄の足仲彦(仲哀天皇)の墓が藤井寺に所在すると伝えることから、布忍入姫命も布忍に関わりがあると推察されます。

 また、『新撰姓氏録』河内皇別の条に「布忍首。的臣同祖、武内宿禰の後なり。日本紀に漏れたり」とあるので、大和王権から律令制の時代、布忍の地を本拠とした布忍首という氏族がいたこともうかがえます。

 平安時代に、布忍寺や布忍神社が歴史に名をとどめる以前から、布忍の名は存在していたと思われます。布忍のほぼ全域は、布忍・清水・高木・鍵田・南新町・東新町の各遺跡が広がり、縄文時代から近世に継続した遺構や遺物が数多く検出されています。

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