22 王仁の聖堂址伝説

更新日:2018年12月13日
出岡弁財天の画像

出岡弁財天 同社は元禄5年(1692)の「寺社改帳」に、慶長年間の焼失後、寛永年間に再建されたとある。

学問の興隆を期待した河内の人々

 古代史家の塚口義信さんは「伝説というものは、内に何か核となるべきものがあって、それがこうあってほしいと願う伝承荷担者や時代の要請に応じて、雪ダルマ式に形づくられていくものではないか」といっています。

 松原の伝説のなかで、古代史上、有名なもののひとつに王仁の聖堂の言い伝えがあります。

 『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたとあります(応神16年条)。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています(応神段)。

 王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の祖と伝えています。西文氏は5~6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を氏寺としていました。
 こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖としてあがめられるようになりました。とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪には王仁墓が建てられています。また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。

 江戸時代の享保20年(1735)、並河誠所は、旧跡を踏査して『河内志』を著しました。同書の丹北郡の項に「聖堂池は新堂村にある。父老が言うには、池の傍らにかつて聖堂があったので池名となった。いま宗像を安置した祠が祀られている」と書かれています。

 聖堂池は、いまでは清堂池と書き、岡1丁目に所在します。池は中堤で分けられ、西側を清堂池、東側を宮ノ池とよびかえています。池の南側は埋めたてられて松原第6中学校が建っています。6中前は、池に突き出た岬状となっており、そこに出岡弁財天が祀られています。

 『河内志』にいう祠とは出岡弁財天を指すのでしょう。清堂池の所在する出岡は岡の分村ですが、同池は新堂地区の水田灌漑用として活用されています。

 聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のことですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。

 しかし、ここに聖堂があったと江戸時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広めたいという願望があったからではないでしょうか。

 清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。

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