34 来迎寺と法明上人

更新日:2018年12月13日
来迎寺の画像

来迎寺(丹南3丁目)
寺域は、丹南遺跡(飛鳥時代から近世)の一角にある。
丹南藩主の菩提寺で、藩主の五輪塔も現存する。

松原に広まった融通念仏の教え

 融通念仏宗は、平安時代後半の天治元年(1124)に京都・大原の天台僧、良忍(りょうにん)によって開かれました。良忍が大治2年(1127)、摂津の平野(大阪市平野区)に建てた大念仏寺を本山としています。

 天承元年(1131)、良忍は念仏の教えを広めるため、市域南端の丹南に阿弥陀如来を安置する堂を建て、融通念仏十ケ郷辻本大勧進阿弥陀寺と号しました。

 時の鳥羽上皇や崇徳天皇は、良忍に帰依していたことから、融通念仏の教えは各地に広まったのでした。しかし、良忍の死後は衰退し、大念仏寺や阿弥陀寺などの堂塔も壊廃していきました。

 そこに鎌倉時代末期、現れたのが法明でした。法明(ほうみよう)は、元亨元年(1321)、大念仏寺第7世となり、融通念仏宗を復興しました。

 続いて法明は、良忍の聖跡と伝える阿弥陀寺が荒れるのを惜しみ、近くの菅生(すごう)神社(南河内郡美原町菅生)より感得した阿弥陀如来画像を勧請して、同寺を中興したのです。そして、正中元年(1324)、阿弥陀寺から河内十箇郷六本別寺諸仏山護念院来迎寺と寺号を改めました。これが、丹南3丁目の中央環状線南側に寺域を占める来迎寺の来歴です。
 この時、法明は来迎寺中興とともに、法明寺(大阪市平野区喜連)、良明寺(奈良県生駒郡平群町久安寺)、極楽寺(河内長野市古野)、大念寺(南河内郡河南町大ケ塚)、高安寺(八尾市水越)の各寺も開基したのです。のち、来迎寺などこれらの6ケ寺は融通念仏宗の中本山となりました。

 来迎寺は江戸時代以降、河内国丹北・丹南・八上郡、および摂津国東成・西成・百済・住吉郡にある36ケ寺をまとめたのでした。

 来迎寺には、今も法明の大衣が寺宝として残されています。また、境内墓地には法明の供養塔が歴代住職の墓塔と並んで祀られているのです。

 今年の2~4月、来迎寺東側のゴルフ練習場跡が市教委によって発掘調査されました。そこは、江戸時代、高木氏の丹南藩1万石の陣屋のあったところです。

 調査では、陣屋遺構とともに、その下層から室町時代後半の「来迎寺」と刻した軒丸瓦と鬼瓦が検出されました。江戸時代以後、陣屋の建設に伴い、寺域が西に移動した可能性があります。

 融通念仏宗は河内や摂津・大和で隆盛をみましたが、本山の大念仏寺の上人(貫主)に松原出身の僧が3人も名をとどめています。室町時代の大永元年(1521)に29世となった三宅村の法融上人。続いて享禄2年(1529)に30世となった丹南村の道阿上人。桃山時代の文禄5年(1596)に34世となった布忍・高木村の宗圓上人です。

 市域には、他にも融通念仏宗寺院として宝泉寺(清水・南新町6丁目)、西方寺(三宅中5丁目)、浄光寺(新堂3丁目)、大念寺(西大塚1丁目)があります。各寺は、寺伝によればこの時、法明によって開かれたといわれています。

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