41 丹下城・松原城の築造

更新日:2018年12月13日
丹下城が築かれた河内大塚山古墳の遠景

丹下城が築かれた河内大塚山古墳(西大塚1丁目)
古墳は6世紀後半の築造。
濠に囲まれた要害の場所であった。

北朝の丹下氏が築いた南北朝内乱期の城郭

 後醍醐天皇の建武の新政が破れた後、建武3年(1336)8月、足利尊氏は京都に光明天皇を擁立して北朝をたてました。一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に遷幸し、南朝としてこれに対抗しました。いわゆる南北朝内乱の始まりです。

 南朝側の楠木氏やその一族は、楠木正成の戦死後も南河内や和泉地方に勢力を持っていましたので、京都の北朝側との間で、市域やその周辺では戦乱がくりかえされました。

 鎌倉末期、市域最南端の丹南に幕府の守護所が置かれていたこともあって(「歴史ウォーク」40)、本市には北朝側に組みする丹下氏の城郭が築かれていました。それが丹下城です。

 丹下氏は市域東部の西大塚から羽曳野市南恵我之荘周辺を根拠とした土豪武士です。丹下城は、同地につくられていたわが国で5番目に大きな河内大塚山古墳(「歴史ウォーク」8)の墳丘や濠を再利用して、城としたものです。

 建武4年(1337)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市(羽曳野市)に陣を張っていた南軍を攻めました。しかし、野中寺(羽曳野市野々上)前で合戦となり、南軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われました。

 河内大塚山古墳も戦場となったでしょう。平地に築かれた人工の造山である巨大な古墳を城郭に再利用した例は、摂津・河内・和泉地方にたくさんあります。とくに、丹下城は羽曳野市誉田の応神天皇陵古墳を利用した誉田城につぐ巨大な城郭であったと思われます。

 建武年間(1334~38)頃、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側の松原荘にも松原城をつくりました。松原荘は、いまの上田・新堂・岡地区にあたります。

 松原城の位置は分かりませんが、一名、剰彼城ともよばれていますので、中高野街道沿いの岡の北部にあたる出岡の地名と結びつきます。現在の岡2丁目あたりにあったかもしれません。

 建武5年(1338)、南朝側の和田正興や橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。この時、和田正興軍の高木遠盛は、丹下八郎太郎の子である能登房を討ち取っています。この高木氏は、布忍の高木(現、松原市北新町)出身の土豪武士と考えられています。

 松原城は構築まもなく落城しましたが、丹下城はその後、戦国期まで存在していたようです。現在、両城ともその縄張りなどは分かりませんが、南北両軍の攻防の歴史が市域にも及んでいたことを伝えています。

カテゴリー

お問い合わせ

松原市 市長公室 観光・シティプロモーション課

〒580-8501大阪府松原市阿保1丁目1番1号

電話:
072-334-1550(代表)