50 栄久寺にあてた教如の決意

更新日:2018年12月13日
栄久寺の画像

栄久寺
本堂前に建つ「教如上人旧跡」碑は昭和16年3月、本願寺23世彰如が揮毫した。

石山合戦で徹底抗戦した若き教如の檄文

元亀元年(1570)9月12日夜半、石山(現大阪城内および周辺)にある本願寺の鐘が鳴り響きました。これが天下人をめざす織田信長と本願寺との11年にもわたる、いわゆる石山合戦の幕開けでした。当初は一進一退でしたが、やがて本願寺側が不利な状況に陥りました。

天正8年(1580)3月、本願寺11世顕如は信長と和睦し、顕如は7月に石山の本願寺を退出することになりました。ところが、顕如の長男である23歳の教如が籠城を主張したことから、顕如は4月9日に大坂を出て、紀州の鷺森(和歌山市)に退いたのです。

教如は以後も徹底抗戦をよびかけ、約4カ月間、本願寺にとどまりました。しかし、ついに8月2日、本願寺に火を放って大坂を脱出して同じ紀州の雑賀に向かったのです。

脱出1カ月後の9月6日、教如は一通の檄文を立部村の栄久寺に送りました。それは、河内国の坊主衆や門徒衆にあてたものです。

その内容を要約しますと、
「(天正8年)8月2日、大坂を退出して雑賀におります。このたびのことは残念ですが、出城の破却もやむをえないことです。私のことは気づかいいりません。みなさんがそれぞれ法義を行い、今後とも宗門を守ることを、ただ頼むだけです」
とあり、苦しい心境がつづられています。

教如は天正8年から9年にかけて、こうした檄文約100通を各地に出しましたが、河内ではこの栄久寺文書しか見つかっておらず、いまも寺宝として大切に残されています。

栄久寺は、古い民家が数多く残る立部1丁目にあります。山号を願成山といい、浄土真宗大谷派ですが、もともとは真言宗で観音寺とよばれていました。

戦国時代の明応年間(1492~1501)、本願寺8世蓮如の布教によって浄土真宗に改宗し、栄久寺と名を変えました。
寺伝によれば、教如の脱出に際し、栄久寺住職の良円は門徒の人たちとともに支援を惜しまなかったといいます。

教如はのち本願寺12世を継ぎますが、まもなく隠居を余儀なくされ、やがて東本願寺を別立してその初代となります。栄久寺は、教如との関わりから東本願寺を本山と仰ぐのです。

栄久寺本堂の本尊阿弥陀如来立像の横には教如画像が祀られていますが、 これは本願寺14世の琢如が万治4年(1661)に下付したものです。

なお、同寺には戦国時代の本願寺9世実如が書写した 「南无不可思議光如来」の九字名号と「南無阿弥陀仏」の六字名号も伝えられています。  

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