105 西野々村と西法寺

更新日:2018年12月13日
西法寺

西法寺(西野々1丁目)
「一頼山」と号する。
もともとは、東本願寺・西本願寺の両派に属していたが、昭和17年以後、東本願寺に属するようになった。

丹比野の西方に広がる西布野とも称した地名

 古代、松原市域は丹比郡に含まれており、以来、当地周辺は丹比野と称する見渡す限りの田園風景でした。こうしたことから、丹比野には「野」という地名のついた地域が目につきます。羽曳野市の野や野々上、あるいは向野、藤井寺市に野中、堺市には野遠などが今も町名として伝えられています。
 この「野」地名は、本市東部にも西野々として見られます。同地は、江戸時代まで河内国丹北郡西野々村でした。古い町並みが残る中を、わが国最古の道の一つといわれる長尾街道が走っています。この古道に沿って西野々集落は形成されました。
 こうした一連の「野」の由来は、奈良時代前後ごろ、丹比郡の中心的役所が今の羽曳野市郡戸付近に置かれ、ここを基点に野、野々上、向野、野中といった位置関係が生まれ、地名となったのではないでしょうか。そして、それらの地域から西北にあたる地を西野々と呼んだと思います。また、西野々より3キロほど西に集落をかまえた野遠は、これらの野より遠く離れていたことから、名づけられたとも考えられるでしょう。
 ところで、西野々の村名については、西野々公民館の南側にある西法寺に興味深い史料が残されています。西法寺は浄土真宗大谷派で、江戸時代前半の寛文9年(1669)12月に西野々村惣道場として創建されたと伝えています。江戸時代を通じて、摂津平野郷の恵光寺(現慧光寺、大阪市平野区。もとは八尾市萱振にあり、西本願寺に属す)の末寺となり、同寺から看坊とよばれた輪番の役僧が派遣され、西法寺の法務をつかさどったのでした。
 享保20年(1735)2月、看坊の智玄は、「河州丹北郡西野々村西法寺什物記」をしたためました。そこには、本尊の阿弥陀如来像や、恵光寺が平野に移り、東本願寺に転派した当時の東本願寺16代、一如の御影などが西法寺に下された年月が記されています。このうち、延宝7年(1679)7月付の写しに「恵光寺下 河内国西布野村惣道場西法寺」とみられます。この西布野村という表記が注目されるでしょう。
 江戸時代の他の西法寺文書や、西法寺門徒の西野々村同行講が所蔵する元禄3年(1690)をはじめとする幕末までの史料には、いずれも西野々村とあり、西布野村は今のところ、この一点のみです。ですから、写しの誤字か当て字の可能性もありますが、江戸時代前半、当地は布を引いたような一面の野が広がっていたと意識されていたのかもしれません。
 明治以後、西野々村は南接する西大塚村の一部にとりこまれ、行政地名としては無くなりました。しかし、平成6年の第6次住居表示変更によって、伝統ある西野々の地名が百数十年ぶりに復活し、西野々1丁目、2丁目として現在に至っているのです。

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