112 古文書から知る法泉寺の歴史

更新日:2018年12月13日
木佛尊像許可状の写真
梵鐘の写真
 
 

「木佛尊像許可状」(延宝元年)と梵鐘
(一津屋1丁目、法泉寺蔵)
許可状には「興正寺門徒性應寺下」とある。
梵鐘は、元禄13年鋳造品を昭和47年に再現したもの。

興正寺-性應寺に連がる市域唯一の浄土真宗寺院

 一津屋1丁目に、浄土真宗本願寺派の大師母山法泉寺があります。法泉寺の恵我法海住職は、以前から寺に伝わる古文書類や歴代住職画像を調査・研究されてこられました。私は、このたび恵我さんから、これらの貴重な史料を拝見させていただき、法泉寺がたどってきた歴史の重さを知らされました。
 法泉寺は、もともと真言宗であったと伝えています。江戸時代後半に記されたと思われる「法泉寺従開基住持法名附」に、同寺は戦国時代の天文2年(1533)に浄土真宗興正寺末となり、浄信が初代住職に就いたとあります。江戸時代まで、現本山の西本願寺でなく、本願寺教団で特別の地位にあった興正寺(京都市)の末寺だったのです。
 文政8年(1825)、十三代住職の了教は、「當寺法物記録」をまとめました。それには六代住職了楽の寛文11年(1671)、本願寺十四世寂如より、十三世の「良如上人御影」が下されたのを皮切りに、翌寛文12年(1672)に親鸞の真影である「御開山御影」と「聖徳太子・七高僧真影」が下され、翌延宝元年(1673)には本尊(阿弥陀如来像)の「木佛尊像」が与えられています。同じ了楽の元禄13年(1700)には、本願寺より「撞鐘御免」も出され、梵鐘を備え、うつことを許されました。
 この梵鐘はアジア太平洋戦争で供出されましたが、現在、復元品が鐘楼に架かっています。
 ところで、法泉寺に宛てられた古文書類には、延宝元年の「木佛本尊許可状」に「興正寺門徒性應寺下河内国丹北郡一屋村法泉寺什物」と記したり、元禄十年(1697)の「袈裟許可状」や宝永四年(1707)の「祖師像等表装許可状」に「興正寺殿御門徒性應寺殿下河内国丹北郡一屋村」とあるなど、同寺は興正寺の下、性應寺の末寺になっていることが注目されます。
 性應寺は、江戸時代まで現在の和歌山市和歌浦にあり(明治11年に鹿児島県に移転)、興正寺の有力寺院でした。天保10年(1839)に発刊された『紀伊続風土記』には、和歌山県下に62カ寺の末寺があることを記しています。
 南北朝時代、南朝の楠木正成の一族で、後醍醐天皇に従った安満明武が了願と改め、和歌浦に阿弥陀寺という天台宗寺院を建てたのが、性應寺の始まりと伝えています。その後、浄土真宗に改宗し興正寺の末寺となったのです。南北朝対立時、仏光寺と改名していた興正寺は、南朝側につき、室町時代中頃までは本願寺をしのぐ寺勢を誇っていました。
 江戸時代になると、この性應寺の末寺が大阪府内にも散在するようになりました。このうち、法泉寺は市域で唯一、興正寺-性應寺に連がる末寺でした。次号で、興正寺や性應寺との関わりをもう少し具体的にみていきましょう。

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