114 法泉寺と北山橘庵

更新日:2018年12月13日
法泉寺の外観
鐘楼に設けられた蛙股の写真
 
 

法泉寺鐘楼から本堂を望む(一津屋1丁目)
鐘楼の東西に設けられた蛙股には、水に菊紋があしらわれている(写真右)。

鐘楼蛙股にはめこまれた楠木氏・和田氏の菊水紋

 江戸時代、一津屋が生んだ著名な儒学者であり、医者であった北山橘庵については、たびたび紹介してきました(「歴史ウォーク」74~76)。ただ、北山家が一津屋一丁目の浄土真宗本願寺派の法泉寺と関わりを持っていたことは、意外と知られていません。
 橘庵は享保16年(1731)、一津屋に北山玄昌の子として生まれました。北山氏は、南北朝時代の楠木氏の一族である和田氏の後裔と伝えています。もともとは丹南郡日置荘(堺市)に住んでいましたが、玄昌の父の和田十右衛門正広の時、一津屋村に移り、玄昌が和田から北山姓に変えました。
 法泉寺には、享保15年(1730)11月付の玄昌の母(釋尼妙句)を初見として、北山氏の供養の記録が残されています。例えば、橘庵が施主となった宝暦12年(1762)10月の父玄昌、天明2年(1782)4月の橘庵母の釋榮寿、寛政元年(1789)10月の橘庵妻の釋貞祥などのことも記されています。そして、寛政3年(1791)11月の橘庵の死に際しては、弟の元寧が施主となっています。
 北山家は、橘庵の死後、元寧があとを継ぎました。その後、元寧の直系が、明治末年に桑津天神社(大阪市東住吉区桑津)の宮司となって、一津屋を離れ、今に至っています。
 江戸時代、法泉寺の上寺であった和歌山の性應寺の開基である安満氏も、楠木・和田氏と同族と伝えています。和田氏出身の北山氏が法泉寺を信仰する中で興味深いのは、山門横に建つ鐘楼の東西の蛙股に、楠木・和田氏の紋である菊水紋が変形ですがはめこまれていることです。梵鐘は、元禄13年(1700)、六代住職了楽が最初に造ったものですが、この頃、橘庵の祖父である和田正広が一津屋に移っているのも、偶然ではないかもしれません。
 桑津天神社宮司の北山敦之さんご所蔵の橘庵肖像画に見られる羽織りの紋や、北山家に代々伝わる「北山風薬」の薬袋、文箱などにも菊水紋があしらわれています。性應寺ともからんで、法泉寺鐘楼の菊水紋は注目されるでしょう。
 鐘楼は、安永3年(1774)11月に法泉寺から大坂寺社奉行所へ出された「願上」書に、梁行八尺、桁行八尺の藁葺とあります。しかし、この時、大破したので瓦葺に直したと記しています。
 安永3年「願上」書には、同時に本堂・庫裏・長屋門も大破したと見られます。台風による被害だったのでしょうか。梁行三間・桁行六間八尺の藁葺であった本堂は、瓦葺に修理されました。
 のち、本堂は明治7年(1874)、西川村(羽曳野市恵我之荘)の教勝寺本堂を買い受けて再建されました。さらに、平成16年には新本堂が完成し、同じく修復された鐘楼とともに、盛大な落慶法要が営まれたのでした。

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