161 高木遺跡の中の北新町大池公園

更新日:2018年12月13日
北新町大池公園の写真

北新町大池公園(北新町3丁目)
池越しの西側には、皿池址の高木町公民館が建つ。この辺りから弥生時代後期の集落が見つかっている。東から撮影。

弥生時代・奈良時代の集落 江戸時代の池から見る景観

 去る8月8日、北新町3丁目にため池を活かした北新町大池公園がオープンしました。大池の北側は以前のままの水域空間を残し、木橋やあづまやを設けて、水鳥や水生植物が間近に観察できます。一方、南側は埋め立てられて緑の芝が張りつめられ、花壇もつくられました。大型複合遊具や健康遊具も設置され、多くの人々が楽しんでいます。
 江戸時代、この地は丹北郡高木村で、村には豊かな水をたたえる大きな池がありました。その池は、くわ池とよばれていましたが、のち今のように大池と名を変えたのです。
 江戸時代中ごろの宝暦9年(1759)6月の「河州丹北郡高木村明細帳」の中に、「字くわ池 溜池壱ヶ所 池床壱町四反余」とあります。高木村には、くわ池というため池が一つあることがわかります。池敷面積は1.20ヘクタールほどでした。
 その後の高木村の史料を見ますと、文政年間(1818から29)ごろまでに新池の名が出てきます。これは、くわ池(大池)の南に道をはさんで見られた東新池(池敷面積0.3ヘクタール)のことです。江戸時代後半になって、高木村では米の生産量が増え、くわ池だけの水では田畑の灌漑用水が足りなくなり、新しく池を隣接してつくったのでしょう。今では、新池も埋め立てられ、「おおいけ市民緑地」となっています。
 江戸時代幕末の文久三年(1863)5月に記された高木村の「御用留」という史料には、「村方溜池用水弐ヶ所御座候」とあります。
 高木村では、くわ池と新池という二つのため池があったのですが、近代に入ってそれでも水が足らなかったのか、さらに皿池がつくられました。その皿池もすでに埋められ、高木町公民館が建っています。
 高木東部を流れる西除川から取水して、三つの池が並ぶあたりは、古くから集落が形成され、田畑が耕されていた地域でした。皿池の高木町公民館西側では、今から1700から1800年ほど前の弥生時代後期の土器とともに、たて穴住居や井戸址が検出されています。
 平成20年には、大阪府都市計画道路堺港大堀線の延伸工事に伴い、ため池の北西部にあたる北新町4丁目で弥生時代後期の円形と方形のたて穴住居が一棟ずつ確認されました。弥生土器の甕や鉢などが多く出土しましたが、内陸部では珍しく、海水を入れて塩作りに使う製塩土器も見つかっています。
 同地からは、奈良時代の条里制(土地を東西・南北の線で碁盤目状に分ける)の里境の畦と溝や、1200年前の奈良時代後期から平安時代前期の12棟もの堀立柱建物も見つかりました。建物からは「海獣葡萄鏡」とよぶ農民が持てないような貴重な銅鏡や硯、および井戸址からは銅銭の「富寿神宝」(弘仁9年(818)初鋳)も出土しており、役人が居住していたのかもしれません。
 大阪府立狭山池博物館(大阪狭山市)では、10月9日から12月5日まで、「古代西除川沿いの集落景観」の秋季企画展を行っています。高木遺跡をはじめ、池内遺跡・大和川今池遺跡・堀遺跡・河合遺跡・難波大道の松原市域の西除川沿いの最新発掘成果を紹介します。西除川の歴史が少しずつわかってくることでしょう。

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