175 樋野ヶ池窯と須恵器

更新日:2018年12月13日
樋野ヶ池と中島(上田6丁目)の写真

 樋野ヶ池と中島(上田6丁目)
西から東をのぞむ。中島の傾斜地に窯が造られた。南側の更地が若山遺跡の旧松原職業訓練校。東側の中央環状線(阪和自動車道)ごしに河内大塚山古墳の森が見える。          

六世紀中葉ごろに造られ 河内大塚山古墳に供給か

 上田6丁目に、上田墓地があり、その南側には樋野ヶ池(ひのがいけ)が水をたたえています。池の南側は、平成18年3月まで府立松原職業訓練校が建っていた跡地です。旧校地は、小字名をとって若山遺跡とよばれる埋蔵文化財地で、7~8世紀の飛鳥・奈良時代には、土地利用がされていました(大阪府文化財センター『若山遺跡』、平成22年)。

 樋野ヶ池に目を転じると、若山遺跡に接して、南北に長い小島が浮かんでいます。池の中に島がある景観は、松原周辺ではそれほど珍しいものではありません。樋野ヶ池では、新たに島を造ったのではなく、もともと段丘地形であったものが、池ができた際、段丘の一部が残され、島状となったと考えられます。

 島は樹木で覆われていますが、その傾斜地北東部からは、古墳時代の須恵器(すえき)を焼いた一基の単独窯が見つかっています。昭和49年の発掘調査で、窯体の奥壁と側壁の一部が確認され、壁は厚くなく、また少量ですが、灰原(はいばら)の遺物や灰も検出されました(松原市教育委員会「樋野ヶ池窯跡出土資料」『三宅遺跡』昭和55年)。

 その後も、近くに住む橋本明一さん(故人)によって、樋野ヶ池窯から出土し、散乱していた須恵器がまとまって採集されていたことがわかりました。橋本さんは、のちにそれらの遺物を、おいである鹿児島大学准教授の橋本達也さんに託されたのです。

 達也さんは、古墳時代社会を研究する考古学者ですので、これらの遺物を丹念に分析・紹介し、樋野ヶ池窯の性格を明らかにしようとされました(同氏「樋野ヶ池窯と河内大塚山古墳」『比較考古学の新地平』平成22年、同成社)。

 採集された須恵器は、坏身(つきみ)や坏蓋(つきふた)が多く、食物を盛る脚つきの台である高坏(たかつき)の他、液体を入れる甕(かめ)や容器の壺などの破片も見られました。これらの多くは、還元していない生焼けのもの、外面のみ赤褐色のもの、断面がエンジ色のものもあり、焼け歪みもありました。まさしく窯跡資料の特色を備えています。

 その時期は、専門的になりますが、松原から8~10キロ離れた須恵器の大量産地である堺市・泉北ニュータウンの丘陵に存在する陶邑(すえむら)窯跡群の編年で、高蔵寺(たかくらじ)地区のTK10型式から陶器山(とうきやま)地区のMT85型式にあてはまります。古墳時代後半の六世紀中葉のことです。

 では、樋野ヶ池窯は、何のために設けられたのでしょうか。一般的には、樋野ヶ池から東へ200メートルほど離れた西大塚1丁目の河内大塚山古墳(「歴史ウォーク」8)に副葬品として、供給されるためと見るのがよいでしょう。

 大塚山古墳は、わが国で5番目の墳丘規模を持つ巨大前方後円墳です。墳丘からの出土遺物は不明ですが、樋野ヶ池窯と同じく6世紀中葉以後に造られたと考えられています。

 樋野ヶ池窯は、この時期、最盛期を迎えた陶邑窯跡群が地方波及した窯跡であり、河内大塚山古墳の築造を考えるうえで、貴重な資料を提供したのでした。

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