177 三宅で続くお名号会

更新日:2018年12月13日
お名号会(願久寺境内)の様子
お名号会(善長寺本堂)の様子

お名号会(三宅中5丁目)

2011年3月28日。右は善長寺本堂でのお名号の引き継ぎ。善長寺住職(左)からお名号を願久寺住職(右)のかいぞえで願久寺総代が受け取る。左は願久寺境内に入ったお名号。いずれも三宅中の関根清壽さん撮影。

3月28日、真宗大谷派 願久寺・玉應寺・善長寺順回り

 3月28日の朝9時、三宅中5丁目の願久寺(がんきゅうじ)に集まった門徒さんたちは住職に先導され、南隣りの善長寺(ぜんちょうじ)に向かいました。善長寺に、前年から祀られていた親鸞(しんらん)聖人筆と伝える紺地に金泥(きんでい)で書かれた掛軸の「南無阿弥陀佛」のお名号(みょうごう)を次の当番(会所(えしょ)寺院)の願久寺にお迎えするためです。

 善長寺本堂には、善長寺住職や願久寺のあとの会所寺院となる玉應寺(ぎょくおうじ)の僧侶をはじめ、それぞれの門徒さんもそろわれています。本堂ではお名号の引き継ぎが行われ、願久寺総代にかかえられたお名号は、願久寺へ移り、その1年間は願久寺でお祀りされるのです。

 お名号が願久寺本堂に掛けられると、三ヶ寺住職たちは仏を讃える嘆仏偈(たんぶつげ)を勤めます。さらに、昼2時からは仏説阿弥陀経を、また夜七時半からは正信偈(しょうしんげ)をお勤めするのです。

 これらの仏事は、昨年3月のお名号会を紹介したものです。三宅のお名号会とは、江戸時代後半以降、当地の真宗大谷派の三ヶ寺が順回りに毎年1度ずつ、お名号の礼拝とお勤めを行うものです。

 お名号会のおこりは、鎌倉初期の建久(けんきゅう)2年(1191)、浄土真宗開祖の親鸞が比叡山から聖徳太子廟のある磯長(しなが)の叡福寺(えいふくじ)(大阪府太子町)に詣る途中、三宅を通り、同地の妻屋家に立ち寄ったといいます。妻屋家では、親鸞に願い、「南無阿弥陀佛」の六字名号を書いてもらって、屋敷に祀ったのが最初だと伝えています。

 その後、妻屋家では尊いお名号を自家だけで祀るのは勿体ないとし、三宅村門徒さん全てにおがんでもらいたいと思い、江戸時代後半の宝暦(ほうれき)13年(1763)9月に三ヶ寺へ譲りわたされたのでした。

 宝暦13年時の当主で、三宅村庄屋の妻屋七五郎(しちごろう)が同村の小林与次右衛門(よじえもん)の仲立ちのもと、願久寺九代住職浄教(じょうきょう)、善長寺11代住職恵秀(えしゅう)、玉應寺住職慈任(じにん)に宛てた「当家代々所持之親鸞聖人御真筆六字名号」で始まる「譲証文之事(ゆずりしょうもんのこと)」が保存されています。あわせて、同月20日に出された三ヶ寺住職と小林与次右衛門から「妻屋新兵衛(しんべえ)御子息  妻屋七五郎殿」宛のお礼の一札も残っています。

 お名号をおさめる木箱には、「壬文久二戌年  正月」「寄進人  施主  辻本新助  同為右衛門」「祖師聖人御真筆御名号」と書かれており、三宅村の辻本氏が、江戸幕末期の文久(ぶんきゅう)2年(1862)に寄進したことがわかります。

 願久寺前住職の藤園堅正さんが昭和26年3月の寺報「慈光」(第3号)に「昔から当日は村中がお参りするために、村役場から休みを触れさせたもので、参詣の人達をあてこんで寺の内外には沢山な店や、のぞきからくりなどが出て賑わったものです。それで鎮守の秋祭りと同様、親類縁者を招いての参詣があり、この行事が広く知られて、“おみょうごっさん  おみょうごっさん”と、なまって云われるようにさえなり、古くは寺の行事が村の行事になっていった」と先々代住職から聞いた事を書かれています。

 今年も3月28日、願久寺から順番に玉應寺にお名号が移されます。江戸時代後半以来、三宅で続けられているお名号会は、指定文化財的要素を持った行事といえるでしょう。

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