180 大塚山古墳と岡の氏神の遺産

更新日:2018年12月13日
正定寺・長蓮寺本尊の阿弥陀如来像の写真

正定寺・長蓮寺本尊の阿弥陀如来像(円正寺)

正井殿常夜燈と手水石の写真

正井殿常夜燈と手水石(岡5丁目・円正寺境内)

円正寺に移された正定寺・長蓮寺仏像、正井殿石造物

 西大塚1丁目の河内大塚山古墳(「歴史ウォーク」8・91)は、全国でも5番目に大きな前方後円墳です。墳丘の東半分は南恵我之荘東大塚(羽曳野市)となっています。昭和3年(1928)まで、古墳の中には、江戸時代以降、数十軒の集落が形成されていました。墳頂に菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする天満宮が祀られ、東大塚側には融通念仏宗の西誉寺(さいよじ)と浄土真宗本願寺派の正定寺(しょうじょうじ)もありました。

 明治時代初めに二か寺が廃寺となり、天満宮も明治41年(1908)に柴籬(しばがき)神社(上田7丁目)に合祀されました。しかし、このうち正定寺の本堂や本尊の阿弥陀如来像は、大塚山古墳の北東側、恵我之荘丹下(たんげ)(羽曳野市)の真宗大谷派・長蓮寺(ちょうれんじ)の本堂と本尊として移され、生まれ変わったのです。

 東大塚と丹下村が隣り合い、古墳を取り囲む周濠が、水下の一津屋、丹下、西川(恵我之荘)地区の田畑を潤す灌漑池で、特に丹下が水利権を強く持っていたことも機縁の一因となったのでしょう。

 ところが、その長蓮寺も今では本堂が解体され、丹下公民館として、再建されています。このため、本尊などは長蓮寺門徒さんが檀那寺と信仰する岡5丁目の真宗大谷派・円正寺(えんしょうじ)(「歴史ウォーク」55・179)に最近、移されました。

 円正寺が長蓮寺の門徒さんのお勤めをするようになったのは正定寺本堂や本尊が丹下に移った明治時代前半以降のことです。それまでは、八尾別院大信寺(だいしんじ)からお参りされていましたが、円正寺の『過去帳』にはじめて明治25年(1892)に長蓮寺門徒の葬儀のことが記されています。円正寺が東大塚・西大塚・立部などの小土(こづち)墓地の東側に当初あったことから、丹下との結びつきもできたのでしょう。

 現在、円正寺本堂に客仏となっている阿弥陀如来像は、江戸時代前半ごろの立像で、二度の移転があったものの、傷みもなく、造立当時のお姿で祀られています。

 円正寺には、他にも興味深い移転物があります。松原南小学校の北側(岡3丁目)に鎮座する素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする正井殿(まさいでん)(「歴史ウォーク」68)に奉納されていた石造遺物です。

 本堂前に、「正井殿常夜燈」と書かれた常夜燈の竿石と同社手水石が置かれています。常夜燈には年月が見られませんが、形式や正井殿に残る石造物の状況から、江戸時代後半ごろと推測されます。境内に、天保(てんぽう)14年(1843)8月の石灯籠が現存し、数年前まで、文化(ぶんか)13年(1816)8月の狛犬も残っていました。

 また、手水石には文政(ぶんせい)2年(1819)9月に、岡の山田定右衛門が寄進したと記しています。定右衛門は、近くの泉福寺の檀家で、泉福寺にも同年に石灯籠を寄進していました(「歴史ウォーク」178)。

 正井殿は、明治5年(1872)に一時、竹内街道と中高野街道が交わる現、松原南図書館東側に移転しましたが、再び明治38年(1905)に元の鎮座地に戻りました。その時、一部の石造物が円正寺に移されたのかもしれません。

 円正寺に伝わる仏像や石造物は、大塚山古墳や岡の氏神の歴史の一端に触れる文化遺産なのです。

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