発掘調査で、古道跡を発見することはたいへん難しいことです。特に松原市域のように、遺跡の上に土砂が厚く堆積しないようなところでは、締め固めて造られた道路面や、道路上に刻まれた轍(わだち)、足跡などは後世の開削などによって残っていないこと多く、構造物を持たない古道跡はたいへんわかりにくくなっています。また古道跡は現在も道路として機能していたり、土地の境界であったりすることが多く、発掘調査の手が及ばないあるいは調査しても部分的な調査しかできないといったことで、なかなか古道跡の全容は見えてきません。しかしながら徐々にではありますが発掘調査でもその姿をあらわしてきています。ここではこういった発掘調査で発見された古道跡をご紹介します。
難波大道
昭和55年(1980)に大和川今池遺跡発掘調査で発見されました。飛鳥時代の古道跡で、両側に側溝を備える南北直線道路です。道幅は側溝の芯々幅で、約19メートルあり、古代の一級官道としての規模をもっています。難波宮中軸線と位置があうため、記紀に記される大道と考えられ、”難波大道”と命名されました。
長尾古道(長尾街道)
長尾街道は、中世から近世に栄えた街道ですが、その前身とも言うべき古代の道路跡が、上田町遺跡や高見の里遺跡のいくつかの発掘調査で発見されています。各々の調査では東西方向の溝跡を確認したのみですが、それらを集成して検討してみると、溝跡は道路側溝であり、側溝芯々幅で18メートルの規模をもつ古道跡であることがわかりました。時期的にはさらに検討が必要ですが、飛鳥時代から奈良時代の間に造られたもののようです。この古道跡は、記紀に記された”大津道”であるとする説がありますが、異論もあり、さらなる検討が必要です。なおここでは、中世から近世の長尾街道と区別するため一応”長尾古道”と称しておきます。
竹内古道(竹内街道)
竹内街道は、中世から近世に栄えた街道ですが、その前身は長尾街道と同じく古代の道路であろうとされており、記紀に記される”丹比道”ではないかとの説もあります。発掘調査では具体的なその遺構はまだ確認されていませんが、ただ現在の道が古代の道路位置ではないということはわかってきています。現在の竹内街道は、堺市側で直進する位置より西除川を渡る付近で約100メートルほど北にずれていますが、古代ではずれずにまっすぐに走っていたのではないでしょうか。今後の発掘調査で判明することを期待しています。なお竹内街道の前身とも言うべき古代の古道をここでは中世から近世の竹内街道と区別するため一応”竹内古道”と称しておきます。
新堂遺跡
新堂遺跡では、古墳時代後期の木橋の跡が発見されたほか古墳時代後期から飛鳥時代ころの側溝とも思える溝跡が発見されています。いずれも斜向道の遺構と考えられます。
立部遺跡
立部遺跡では、奈良時代から平安時代の斜向道に伴う溝跡が発見されているほか、2条の溝跡による古道状の遺構が発見されています。これは斜向道と竹内古道とが交わる付近で発見されたもので、鋭角に交差する2本の道の間をバイパス上に結ぶ道路のように見えます。
丹南遺跡
丹南遺跡では、両側溝をもつ古道跡が2本発見されています。発掘調査では、2本の古道跡がT字状に交わった個所を発見しました。1本の古道は、溝芯々幅で約7メートルの幅をもつ道で、難波大道や長尾古道のような規模はありませんが、延長線上に残る土地地割からみて、市内を北北東から南南西にまっすぐに縦断する基幹道路である可能性があります。またもう一方の古道は、幅約4メートルで西方に伸び、延長上では現在の丹南集落の南方を東西に走る道路と一致します。なおこの2本の古道跡が交差する地点では、後者の古道が前者の古道側溝をまたぐところに円筒埴輪を土管として埋設してありました。古道が造られた時期は、飛鳥時代から奈良時代とおもわれます。
東新町遺跡
平成9年(1997)に行った発掘調査で、2条の平行する直線溝跡を発見し、古道跡である可能性を考えました。幅員は7.5メートルから8メートルで、古墳時代後期から飛鳥時代ころのものです。その位置や方向性から考えると斜向道の延長であるかもしれません。
南新町遺跡
平成8年(1996)に行った発掘調査で、2条の平行する直線溝跡を発見し、古道跡である可能性を考えました。幅員は3メートルから6メートルで、古墳時代後期から飛鳥時代ころのものです。
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