185 高見の里開発者の林明

更新日:2018年12月13日
林明宅に建つ記念碑の写真

林明宅に建つ記念碑 現在、孫の林秀隆さんに受け継がれている(高見の里1丁目)  

 

技術者として活躍していたころの林明の肖像写真

技術者として活躍していたころの林明(撮影年次不明)  

 

松原村高見ノ里の表記

松原村高見ノ里の表記 本来は、松原村上田だが、林は高見ノ里を使った。 昭和9年、欧米旅行帰国の挨拶状。 電話は更池局であった。        

 

昭和2年、 高見ノ里園芸住宅 昭和7年、高見ノ里駅新設

 9月1日、近鉄高見ノ里駅は開業80周年を迎えました。当日、高見ノ里駅では記念乗車券や鉄道グッズの発売のほか、昔の列車や駅舎の写真展、子供さん用の制服着用撮影会が行われ、多くの鉄道ファンが訪れました。

 近鉄南大阪線は、近鉄の前身の河陽(かよう)鉄道が明治31年(1898)3月に柏原ー古市間を走り、翌32年5月には、河陽鉄道を継いだ河南(かなん)鉄道が富田林ー長野間を開通させたのが始まりです。

 しかし、この時期、松原ではまだ鉄道は走っていませんでした。市域にレールが敷かれるのは、河南鉄道が大阪鉄道(大鉄)へと名を変えていた大正11年(1922)4月、道明寺ー布忍間が通ってからです。そして、翌12年4月には、布忍ー大阪天王寺(現大阪阿部野橋)が開通したのです。この時、河内松原や天美車庫前(現河内天美)の各駅も設けられましたが、高見ノ里駅の開業は昭和7年(1932)まで待たなければなりませんでした。

 昭和初期ごろ、高見ノ里駅周辺は、一面の田畑でした。明治22年(1889)4月に、丹北(たんぼく)郡高見村が近隣の村々と合併して中河内郡松原村高見となるのですが、高見集落は、のちに敷設される線路の南側にかたまっていました。

 鉄道の北東側は松原村上田の地籍でしたが、高見の農地が多く、一軒の家もないこの地に昭和2年(1927)、大阪市内から林明(はやしあきら)というアルミニューム製造技術者が移り住んできました。林は高見の地主などとも協力して、住宅地を広げてゆき、簡易水道や碁盤目状の道路をつくって高見ノ里園芸住宅と名づけ、今の高見の里住宅地の基礎を築いたのです。

 林は明治16年(1883)10月、福島県相馬郡福田村(現新地町)に生まれました。明治41年(1908)、東京帝国大学採鉱冶金(さいこうやきん)学科を卒業後、翌年東北の仙台鉱山監督署技師となりました。45年には、大阪の藤田組に入り、秋田県の小坂鉱山へ出向しました。やがて、大阪亜鉛鉱業株式会社に招かれ、ここで日本最初の亜鉛製造に従事するようになりました。そして、大正6年(1917)、わが国初のアルミニューム電気精錬に成功したのです。

 昭和7年10月、高見とは西除(にしよけ)川を隔てて隣接していた、当時の南河内郡北八下(きたやした)村河合(現松原市河合)に帝国女子薬学専門学校(現大阪薬科大学)が北河内郡守口町土居(現守口市)から移転してきました。そこで、大阪鉄道は9月1日、高見ノ里駅をつくり、女子学生の通学の足としたのです。薬学専門学校の誘致と新駅の設置に貢献した一人が林だったのです。

 林は、その後もアルミニュームの精錬の研究と後進の指導にあたります。昭和16年(1941)には、小豆島(香川県)でのイルミナイト鉱、琵琶湖東岸の天然ガス採取の実現に努力し、21年(1946)には北海道での硫黄開発にも尽力したのでした。

 新興高見の里の発展に尽力した林でしたが、昭和35年(1960)3月1日、77歳で亡くなりました。49年(1974)10月、妻の浜(貴族院議員松本剛吉次女)は、技術者であり、地域を愛した夫の偉業を伝えるため、子らとともに線路沿いの自宅に「林明記念碑」「高見の里開発者」の石碑を建立したのです。

 記念碑は、高見から大高見の里へと変貌したことを物語る歴史遺産といえるでしょう。

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