186 津田式ケーボー号と井戸水

更新日:2018年12月13日
戦前の高見ノ里園芸住宅時代の民家全景

戦前の高見ノ里園芸住宅時代の民家(高見の里1丁目)
二階にはシンプルだが、上下に角材を組んだ意匠が見られる。

 

高見ノ里駅上りホームに残る「津田式ケーボー号」ポンプの写真

高見ノ里駅上りホームに残る「津田式ケーボー号」ポンプ          

 

高見ノ里駅、大臣マーク 手押しポンプと生活用水

 近鉄高見ノ里駅の大阪阿部野橋行き上りホームに、今は使われていませんが、手押しポンプが残されています。ホームに旧式のポンプが見られる駅は、関西でもほとんどありません。

 改札口を入ってホーム中ほどに設置されているポンプには、本体上部前後に菱形マークの中に「大臣」の文字が入り、その下に「ケーボー号」とあります。また、下部前後には二つの三重線の区画の中に「津田式」と分けて、大きく鋳られています。水口やハンドルにも、菱形マークの「大臣」銘が記されていることがわかります。津田式ケーボー号と呼ばれるものです。

 ポンプの下には、当然、井戸が掘られており、駅員さんが毎日ホームで水の散布を行っていたのでした。高見ノ里駅は、昭和7年(1932)9月1日に開業したのですが、井戸は昭和16年(1941)以降、20年(1945)ごろまでに掘られ、ポンプが備え付けられたようです。

 津田式ポンプは、ポンプ王と呼ばれる広島の津田喜次郎(きじろう)(1888-1959)が、大正9年(1920)に開発した昇進式ポンプです。津田のポンプがのち、商工大臣となった藤沢幾之輔(ふじさわいくのすけ)(1926ー27、第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣)の称賛を受けたことから、昭和4年(1929)に「大臣」の商標が出願されました。昭和16年から広島の工場で本格的に製造されるようになり、同年の官報で菱形の「大臣」マークが社票と認められ、第一級規格品とされたのです。しかし、昭和20年の広島への原爆で、工場が破壊され、生産が縮小されました(戦後、復興)。

 ポンプが設置されたと思われる昭和16年ごろ、現在の近畿日本鉄道(近鉄)は大阪鉄道(大鉄)と呼ばれていました。その大鉄が18年(1943)2月に関西急行鉄道(関急)と合併し、さらに、翌19年(1944)6月に南海鉄道と合併(後に再独立)して、今の近鉄が誕生したのです。

 松原市は、昭和30年(1955)2月1日に市制がしかれましたが、それまで市域には水道が引かれず、人々の生活用水は主に井戸水に頼っていました。30年12月に市役所に水道課が出来、同年に上田・阿保地区から送水が始まり、翌年から各地区でも水道が通ったのでした。

 高見ノ里駅付近では、31年に水道が使われるようになり、やがて駅の井戸水も利用されなくなりました。高見ノ里駅は、46年(1971)に今のように地下道で結ばれ、大幅な工事が行われたのですが、井戸は埋められず、ポンプも撤去されなかったのです。

 ところで、戦前、高見ノ里駅周辺に多く掘られた井戸が、今もホームだけでなく、住宅地にいくつか残っています。林明(はやしあきら)が昭和2年(1927)に高見ノ里園芸住宅を開き、井戸水から土管を敷いて簡易水道を設けました(「歴史ウォーク」185)。その水源となった井戸が高見の里1丁目の長尾街道沿いの薬局北側の駐車場にアスファルトで整地されていますが、現存しています。井戸の横には、ポンプ小屋(水道小屋)が建てられていました。

 線路北側に沿った住宅地東端の道にも、石筒は新しくなっていますが、井戸が残され、打ち水として活躍しています。

 今でも、旧ポンプ小屋の南側に高見ノ里園芸住宅開発当時の住宅が残っており、駅の「津田式ケーボー号」と共に昭和前半期の面影をただよわせていました。

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