190 教如上人400回忌と栄久寺

更新日:2018年12月13日
教如上人真影の肖像

「教如上人真影」(万治4年)栄久寺蔵

栄久寺本堂再建届書の写真

「栄久寺本堂再建届書」(文政10年写し)栄久寺蔵

奉納本堂再建上棟の写真

「奉納本堂再建上棟」(天保7年写し)栄久寺蔵

欄間彫物の墨書の写真

「欄間彫物の墨書」(天保7年相野伊兵衛直之)栄久寺蔵

教如上人遺跡顕彰碑建立願書

「教如上人遺跡顕彰碑建立願書」(昭和15年)栄久寺蔵

教如上人の顕彰碑成るの写真

「教如上人の顕彰碑成る」(昭和16年)栄久寺蔵

立部の真宗大谷派寺院 東本願寺創立者の旧跡

 4月2日から4日まで、真宗本廟(東本願寺)で、東本願寺を創立した教如(きょうにょ)上人の400回忌法要が厳修されます。

 教如は永禄(えいろく)元年(1558)、今の大阪城の場所にあった大坂本願寺で生まれました。教如は大坂本願寺が織田信長と十年にわたって戦った石山合戦で、父の顕如(けんにょ)の大坂退出後も、最後まで抗戦したものの、大坂を退きますが、その折、立部一丁目の栄久寺(えいきゅうじ)に立ち寄ったと伝えられています。天正(てんしょう)8年(1580)のことで、その縁から、栄久寺には河内国の門徒衆や坊主衆に宛てた教如23歳の石山合戦における心情を述べた手紙が残されています。この頃の教如直筆の書状が残っていることは少なく、貴重なものです。このため昭和16年には本堂前に、東本願寺23世彰如の揮毫になる「教如上人旧跡」の石碑が建てられました(「歴史ウォーク」50)。

 教如は顕如の死後、文禄(ぶんろく)元年(1592)に本願寺12世となりますが、翌年、豊臣秀吉の命により、弟の准如(じゅんにょ)にその職を譲りました。しかし、慶長(けいちょう)7年(1602)、徳川家康によって、京都の今の東六条に土地の寄進を受けて東本願寺を創始し、ここに本願寺東西分派となったのでした。

 市域には、現在、50カ寺ほどの寺院がありますが、このうち33カ寺が浄土真宗です。その中で、24カ寺が東本願寺を本山とする真宗大谷派、9カ寺が西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派です。

 教如は慶長19年(1614)、57歳で亡くなりますが、栄久寺には東本願寺14世の琢如(たくにょ)が万治(まんじ)4年(1661)に下付した「教如上人真影」が祀られています。

 栄久寺は、17世紀中ごろに今のような寺観が整ったようです。同寺には、文政(ぶんせい)10年(1827)、立部村の領主であった秋元但馬守(あきもとたじまのかみ)に提出した「栄久寺本堂再建届書」の写しが残っています。

 その文書によると、文政10年当時の本堂は慶安(けいあん)4年(1651)の建立でした。そして、慶安の本堂完成と共に、万治4年に教如の真影が与えられ、同時に親鸞(しんらん)聖人の御影も下付されています。琢如は、翌寛文2年(1662)にも三朝高僧の真影や聖徳太子の真影を下付しました。本尊の阿弥陀如来像は、15の常如が延宝5(1677)に下付したとあります。ただ、『八尾別院史』には、木仏寺号は明暦3年(1657)に下付とありますので、慶安本堂建立の数年後に本尊が与えられたと理解したほうがよいでしょう。

 文政10年になって、新本堂の再建が始まり、完成は天保(てんぽう)7年(1836)3月でした。当時の住職は聞鏡(もんきょう)。大工棟梁は、丹南村の山本吉兵衛義久と新堂村の村田清兵衛で、立部村の隣村の大工があたりました。

 現本堂は、平成2年に修復されましたが、内陣や外陣は天保7年上棟当時のものです。中央の欄間には、ひのきで彫られた天女が舞い、鳳凰が飛びかっています。裏側には「彫物師  相野伊兵衛直之(あいのいへえなおゆき)」と記されています。

 相野伊兵衛は、天保3年(1832)の『浪華買物独案内(なにわかいものひとりあんない)』という書物にも紹介された有名な彫物師で、今の大阪市中央区の安土町心斎橋西入に居住していました。天保14年(1843)に再建された来迎寺(丹南3丁目)の山門に飾られた彫物の作者とも考えられています。来迎寺本堂は元文(げんぶん)2年(1737)に補修されますが、この時の大工も丹南の山本氏と新堂の村田氏でした(「歴史ウォーク」187・189)。

 栄久寺では、昭和16年に来たるべき教如上人350回忌に先がけて、教如の顕彰碑を建立したことが記録に残っています。本年の400回忌を契機に、東西本願寺の歩みに触れることが増えるでしょう。

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