122 長尾街道に沿う三ツ池

更新日:2018年12月13日
明治41年測図の三ツ池
寺池東堤跡の写真
 

明治41年測図の三ツ池と寺池東堤跡(東新町3丁目)当時、電車は開通していない。
長尾街道の南に西池(昭和47年潰廃)、その東に長池(52年潰廃)、北に寺池(60年潰廃)がある。
寺池の堤はマンションと本行寺の間を走り、松原三中の正門道となっている。

『河内志』に記す東代と向井の西池・長池・寺池

 近鉄線は、布忍駅あたりで大きくカーブしており、電車も減速して通ります。なぜ、ここでレールが大廻りしているのでしょうか。実は、この地には西池・長池・寺池と称する三ツ池があったからです。今では、これら3つの池は埋め立てられ、住宅・マンション・商店などに変わっています。
 布忍駅南側の踏切り道は、堺と大和を結ぶ、7世紀ごろにつくられた古道です。古代の大津道と考えられ、近世には長尾街道・堺街道・大和街道とよばれました。踏切りの南には西池が、その東堤に接して長池が、街道の北に寺池がありました。電車は西池を分断して走り、車窓の左右に水面が見渡せた風景を、覚えておられる方も多いでしょう。
 三ツ池は旧の東代村、今の東新町に所在しましたが、おもに川下の向井村(現北新町)の田畑に水を送っていました。向井村が水利権を持っていたことから、江戸時代にはしばしば東代村と向井村との間で水争いが起こっています。
 もっとも、元来は三ツ池でなく、西池の東に中池、東池があり、寺池とともに4つの池からなっていました。豊臣秀吉時代の文禄3年(1594)、東代村で検地が行われましたが、その時、これらの池は租税を免除される除地でした。江戸時代前半の延宝5年(1677)の「河州丹北郡東代村池之覚」(東新町・山田典生氏蔵)という文書にも、4つの池が記され、村絵図にも描かれています。
 ところが、それから50年ほどの間に堤を接していた中池と東池は堤を切られて一つの池となり、街道に沿った細長い形から長池とよばれ、三ツ池の総称が生まれたようです。
 江戸時代半ば、儒学者の並河誠所は摂津・河内・和泉・大和・山城を探訪して、各地の名所・旧跡を紹介した「五畿内志」を著しました。このうち、『河内志』は享保20年(1735)に発刊されましたが、丹北郡の中で、三ツ池が記されています。「在向井村東、広四百余畝」とあり、向井村の池として認識されていました。
 『河内志』は、他にも阿保親王・幸松麿伝説の稚児ヶ池(阿保・松ヶ丘)、王仁の聖堂伝説の聖堂池(岡)、依網池伝承の池内池(弁天池・天美東)、依網屯倉伝承の馬場池(三宅)、大池の大海池(三宅)を取りあげています。
 三ツ池が著名とされたのは、古道に沿い3つの池が左右に波うち、池中を歩く構図が人々の目を楽しませたからでしょう。大阪方面から来た旅人は、フジ井寺(藤井寺市)の観音や吉野・長谷寺(奈良県)を巡る時、長尾街道を通ります。狂歌や俳句に詠まれた布忍川(西除川)を過ぎ、三ツ池に心をいやされると、高見村(高見の里)との境に追分けの茶屋がありました。
 歴史的にも、由緒ある池がここに存在したことを後世に伝えるため、顕彰碑の設置が必要ではないでしょうか。

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