135 三宅の善長寺と樋口・大橋氏

更新日:2018年12月13日
願久寺山門の画像
薫風窓双鶴碑の画像
 

願久寺山門から善長寺本堂を望む(三宅中5丁目)
北東から撮影。両寺は隣接し、善長寺本堂は文政13年(1830)正月に再建され、南面する。
本堂前の桜の下に好楽社が大正10年(1921)に建てた「薫風窓双鶴碑」がみられる(右)。

浄了を中祖とする善左衛門 長右衛門ゆかりの真宗寺院

 古い家々が残る三宅中5丁目に、仏光山善長寺が建っています。真宗大谷派で、京都の東本願寺を本山とします。戦国時代の文明元年(1469)、成教が三宅村の道場として、開いたと寺伝にあります。
 善長寺の名は、江戸時代前期に近くの樋口壽一さんの先祖である樋口善左衛門の善と、大橋弘太郎さんの先祖にあたる大橋長右衛門の長をとって付けられたと伝えています。代々、樋口氏当主は善左衛門を、大橋氏当主は長右衛門を名のり、両家は中高野街道の西側に面していました。
 現在、樋口さん宅に4種類の同家系図が保存されています。それらによると、樋口氏は古墳時代、中河内や南河内地方に勢力を持っていた豪族の丹比氏の子孫とします。のち、平安末期の源平合戦で、源(木曽)義仲の武将として活躍した樋口次郎兼光を中興の祖とし、樋口氏を名のったとあります。
 とくに、、幕末の弘化2年(1845)に亡くなった、丹比氏から55代、兼光から28代の樋口善左衛門好昌がまとめた系図は注目されます。この中で、明暦3年(1657)に丹比氏50代、兼光23代の善左衛門兼廣の時、「宿坊、兄弟違乱の事有り。仍りて別に道場を建立す。善左衛門、長右衛門両人の頭を取り、善長寺と号す」と記しているのです。
 善長寺の上寺であった八尾の大信寺(八尾別院)の史料に、明暦3年7月、東本願寺から宗祖親鸞絵像を、同12月に東本願寺14代門首の宣如絵像を善長寺の浄了に下したとあります。寺号と共に絵像が与えられていますので、江戸時代前半に道場から今のように寺院化したのでしょう。浄了は6代住職で、寛文元年(1661)に亡くなり、寺の中祖とされました。同寺の北に接する同じ真宗の願久寺(「歴史ウォーク」49)の浄賢にも、明暦3年10月に親鸞絵像が大信寺を通じて東本願寺から下されています。
 善長寺では、現住職の秦氏が一貫して寺を守ってきたことから、寛文11年(1671)以降の檀家の過去帳が多く残っており、三宅村の門徒の様子を知るうえで非常に貴重です。
 なお、三宅別所霊園(三宅東3丁目)の正面、迎地蔵すぐ西側には、樋口善左衛門の名を刻む江戸時代後半の享保や寛保などの墓石が祀られています。また、大橋長右衛門の名を記す幕末の文政や嘉永年間の墓石も無縁塔西側にみられます。大橋氏は、徳川2代将軍秀忠、3代家光に仕えた書家の大橋龍慶を出した家としても有名です(「歴史ウォーク」58)。
 明治7年(1874)、善長寺には願久寺と共に現在の三宅小学校が設けられました。また、明治初期から昭和初期にかけて三宅で盛んであった冠句(雑俳の一種)の結社、好楽社の句会の場のひとつともなりました。善長寺は三宅村の子どもたちの学びの舎となると共に、地域文化にも貢献していったのでした。  

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