136 松原小学校創始の柴籬山願正寺

更新日:2018年12月13日
願正寺の画像
宝永棟札の画像
文政棟札の画像

願正寺(上田7丁目)と宝永・文政棟札
現本堂は平成10年(1998)に新築再建されたものである。宝永棟札(左)には初代円乗以下、円知、円西、円流、円海。文政棟札(右)にも円海の後、了円、秀円、呈円、了秀、円成、円諦、円端の歴代住職の名が記されている。

宝永2年の棟札を持つ松原村上田の真宗寺院

 上田7丁目の町中に、京都の東本願寺を本山とする真宗大谷派の願正寺が建っています。江戸時代、この地は丹北郡松原村上田でした。
 同寺は、もともと真言宗でしたが、鎌倉時代後半の弘安3年(1280)ごろ、柴籬宮社坊の円宗が浄土真宗に転宗したと伝えています。寺のすぐ東に鎮座する松原村の氏神である柴籬神社境内に建っていた神宮寺の僧が関わったというのです。願正寺の山号は柴籬山と称しますが、こうした柴籬宮との連がりから付けられたのでしょう。柴籬の名が、5世紀前半にここに宮処を置いたと伝える18代反正天皇の丹比柴籬宮に由来することはいうまでもありません。大正時代から現在まで、願正寺住職は上田の旧家であった松川氏がなっていますが、それ以前は柴籬氏が寺を守っていた時期もありました。
 河内では、本願寺8世の蓮如が明応年間(1492から1500)に布教した際、浄土真宗に転じた寺が多いのですが、弘安3年という寺伝を信じれば、ずい分早くから「南無阿弥陀仏」の教えが松原に広まっていたことになります。しかし、願正寺が今のようにお寺として整っていったのは、江戸時代前半ごろからです。元禄5年(1692)11月にまとめられた松原村の「寺社帳」(上田・西田敏弘氏蔵)に、願正寺は寛永年間(1624から43)に円乗が中興したとあります。
 円乗の後、東本願寺の「申物帳」には、寛文3年(1663)3月、2代住職の円知に、願正寺の名を記すと共に宗祖親鸞絵像を東本願寺14世の琢如から下したとあります。円知には寛文5年7月にも、聖徳太子像やインド・中国などの七高僧像が本山から下されました。今も、本堂には本尊の阿弥陀如来像と並んで、寛文年間に与えられたこれらの絵像が裏書と共に祀られています。
 先の「寺社帳」によると、元禄5年当時の願正寺は、わら葺で庇だけが瓦の道場(本堂)とわら葺の庫裏、瓦葺の山門が建っていました。この頃には堺南御坊(堺別院)の末寺に入っており、住職は四代の円流でした。
 願正寺の文化財として注目されるものとして、江戸時代半ばの宝永2年(1705)2月と幕末の文政4年(1821)9月に本堂が再建されたことを記す棟札があげられます。とくに、宝永2年棟札は市域に現存するものでも最古級で、5代円海は「奉再興造立河陽松原願正寺道場一宇惣門徒中寄進」と記しました。また、12代円瑞時代の文政4年の棟札に、この時の棟梁大工が地元の松原村新堂の村田八良兵衛で、平野(大阪市)の柳伊兵衛と共に担ったとあります。
 明治7年(1874)、現在の松原小学校が願正寺に開校しました。上田・新堂・立部・西大塚などの子弟が学びましたが、願正寺が江戸時代以降、地域の人々のコミュニケーションの場となっていたからといえるでしょう。

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