134 国の登録文化財の田中家住宅

更新日:2018年12月13日
田中家住宅の画像
田中左逸翁記功碑の画像

田中家住宅と「田中左逸翁記功碑」(高見の里3丁目)
平屋だが、屋根裏を物置場とした「つし二階建」形式をとる。
格子をこまかくした「虫籠窓」が美しい。

明治初期に建てられた主屋 高見の近代化と高見の里

 高見神社(高見の里3丁目)の参道筋に面して田中守さん宅があります。塀に囲まれた主屋は、明治5年(1872)ごろに建てられました。当時、この地は丹北郡高見村でした。
 主屋は町家風の平屋建てで、入母屋造、瓦ぶき。桁行十間半(うち土間五間半)、梁行四間半です。居室は整形四間取りで、土間囲りが広くとられています。座敷や仏間には、江戸時代後半に描かれた「皓月永春重信」の落款のある「雪中鷺の図」や、同時代の「四季耕作図」が襖絵として、今も残っています。
 他に、北側が入口となる長屋門、主屋南側に建つ二階蔵、東側の離れ、また、北側と西側を囲む塀も明治初期の主屋に付属して建てられていきました。とくに、通りに面した塀には虫籠窓風の開口がしつらえられていて、街路景観を整えています。
 こうした貴重な民家建築から、平成18年(2006)8月、田中家住宅は国の登録文化財となりました。本市では、別所6丁目の中山家住宅(「歴史ウォーク」100)に次いでの登録です。
 江戸時代、田中家当主の多くは、元右衛門を名のりました。今も、西除川に沿った高見墓地には、江戸時代後半から幕末にかけての文化、文政、文久年間の「高見村 元右衛門」などと刻した墓石が数基祀られています。幕末から明治初年ごろの当主も元右衛門(戸籍上は元重郎とする)でした。現主屋は、元重郎時代に建てられたものです。
 元重郎は、明治7年(1874)に亡くなりますが、そのあとを継いだのが左逸でした。左逸は、安政6年(1859)、八上郡野遠村(現堺市北区野遠)の野村家に生まれ、のち元重郎の娘シマの入り婿となったのです。左逸は地域の発展を願い、高見などを縦断する狭山鉄道の計画に積極的に参加するなどしました。現在、田中さん宅北側に「田中左逸翁記功碑」「大正十五年五月 高見」と彫られた顕彰碑が建立されています。左逸はこれを見届けた2か月後の同年7月、67歳の生涯を閉じたのです。
 大正11年(1922)、今の近鉄南大阪線(布忍から道明寺間)が開通しました。当初、高見には駅がなく、布忍と河内松原駅間はため池と一面の田畑の中を電車が走っていました。
 昭和2年(1927)、線路北側に新しく住宅地が開発されることになりました。やがて、昭和7年には帝国女子薬学専門学校(現大阪薬科大学)が高見の南隣りの北八下村河合(現松原市河合)に北河内の守口から移ってきました。このため、学校にかよう通学駅として、今の高見ノ里駅が開業したのです。
 現在では、高見から高見の里へと地名が変遷していますが、新住宅・学校・新駅が出来たことで、高見の村が近代化に向かっていったといえるでしょう。

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