133 松原村新堂の大工利助

更新日:2018年12月13日
愛染院本堂の画像
文化2年棟札の画像
利助墓の画像
 

愛染院本堂・文化2年棟札(堺市・愛染院蔵)と利助墓(新堂5丁目・新堂墓地)
愛染院再建には、秋元家家臣も協力した。同寺墓地に山形藩士や館林藩士の墓石もみられる。
また、利助が名のった伊藤氏の多くは、今も浄光寺を檀那寺としている。

藩主秋元但馬守が命じた愛染院修復と雄略陵普請

 江戸時代後半から末期にかけて、松原村新堂に二代にわたって利助と名のる棟梁大工が住んでいました。この時代、松原村は秋元氏の領地でした。川越藩主(埼玉県)だった秋元氏はのち山形藩主へ、さらに幕末には館林藩主(群馬県)へと移りますが、市域をはじめ、今の堺市東部や羽曳野市西部など河内国の丹北・丹南・八上郡の43ヵ村も領していたのです(「歴史ウォーク」128)。
 秋元氏は、河内では八上郡南花田村の真言宗・愛染院(現堺市北区蔵前町)を祈願所としていました。愛染院は、奈良時代に行基が建てたと伝え、戦国時代の兵火で一時衰えましたが、江戸時代に堺の人々や秋元氏の協力で再興されました。本堂の観音堂は慶安5年(1652)の建立ですが、文化2年(1805)に大規模な修理が施されました。
 愛染院は、もともとは池浦観音寺と呼ばれており、文化2年の修理時の棟札が、同寺に保存されています。棟札には「池浦観音寺大檀越秋元但馬守 権大工松原新堂利助 文化二乙丑年十一月」などと墨書されています。
 秋元氏は但馬守を称する藩主が多く、この時は八代永朝でした。寺の保護者として、その再建を新堂の大工利助に託したのです。間口三間の本堂正面の梁にみられる彫刻や棟木を支える蟇股の端正な形を残しながら、利助は藩主の期待に応えました。本堂は、堺市の指定文化財になっています。
 天保2年(1831)、利助の檀那寺であった融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)本堂が再建されますが、これを指揮したのも利助でした。本堂完成にともない、利助は銀550匁を寄付しています。今のお金で200万円ほどでしょう。
 浄光寺には「大工利助」として、家族の過去帳が残されています。また、新堂墓地(新堂5丁目)入口東側には、戒名と共に「松原村之内新堂 伊都利助 天保十四癸卯九月建立」「門弟中」の墓石も建っています。利助は伊都氏、あるいは伊藤氏と名のっています。天保14年(1843)に亡くなり、弟子たちが建立しました。
 その子も利助の名を継ぎますが、彼も腕のよい大工でした。元治元年(1864)十代藩主秋元志朝は領内の丹南郡南島泉村(現羽曳野市島泉)に所在した雄略天皇陵を修復することになりました。江戸幕府が行った幕末の修陵の中でも、雄略陵は神武天皇陵や応神天皇陵に次いで、大がかりな工事でした。秋元氏は、大工請負を利助に命じて拝所の神明鳥居や柵などをつくらせました。利助が、新堂の庄屋芝池助一郎と連名で、館林藩の役人や丹北・丹南・八上郡の大庄屋に宛て、工事の有様を記した文書が残っています。
 江戸時代後半以降、新堂在住の何人かの大工が寺社や庄屋家を普請した史料がみられますが、その代表的な大工が利助家であったことはいうまでもないでしょう。

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