128 川越藩主の来臨を得た松永家

更新日:2018年12月13日
秋元喬知の位牌(表面) の画像
秋元喬知の位牌(裏面)の画像
 

秋元喬知の位牌(岡2丁目・松永修氏宅仏壇安置)
表面(左)には上部を雲形として秋元家の家紋「木瓜文」を彫っています。

観音堂相殿に秋元喬知の位牌を祀った松原村庄屋

 岡2丁目の出岡公民館の東隣りに松永修さん宅があります。松永家は江戸時代、岡・新堂・上田からなる丹北郡松原村の庄屋を勤めており、江戸中期ごろには丹北郡の大庄屋の任にも当っていました。
 同家は、江戸前半の著名な文人で俳諧の貞門派を広めた京都の松永貞徳を祖とすると家伝にあります。当主の中には、文人として名をはせた人もいました。
 江戸時代、市域の村々は幕府領・旗本領や各藩の大名領に分割支配されていました。松原村は宝永2年(1705)、関東の大名であった秋元氏の領地となり、幕末に至りました。秋元氏は元禄7年(1694)、河内国ではじめて現堺市の八上郡長曽根村・南花田村・金田村・野遠村に領地を与えられ、市域でも、正徳2年(1712)までに松原村のほか、河合・別所・阿保・立部・更池・油上・小川・三宅・西大塚・東代の村々を領しました。
 秋元氏は川越(埼玉県)、のち山形や館林(群馬県)に城(藩)を構えましたので、河内国の支配は大坂の蔵屋敷に会所を置き、また長曽根村黒土に陣屋を設けて当たらせました。
 宝永6年(1709)、幕府の老中にもなった川越藩主秋元喬知が上洛しました。喬知はこの機会に河内の領地を巡見し、丹北・丹南・八上郡の大庄屋であった松原村の松永四郎右衛門、島泉村(羽曳野市)の吉村七郎兵衛、金田村の西清左衛門宅へ立ち寄りました。その際、四郎右衛門は富士山の絵を賜りました。以後も松永家は藩との関わりを持ち、嘉永2年(1849)に亡くなった泰助は長曽根陣屋で書記や用立ての仕事を行ったほどです。
 現在、松永家には四郎右衛門の子、幸之進が記した寛政元年(1789)の「名跡相続願書等控」や享和3年(1803)の「御位牌奉安置由来書」が残されています。これらによると、秋元氏は南花田村の真言宗・愛染院(堺市北区蔵前町)を祈願所としていました。他にも、丹南郡には飛鳥時代に推古天皇の勅願になったと伝える南島泉村(羽曳野市島泉)の明教寺(現浄土真宗)や、八上郡では愛染院以外に平安時代、天台宗の高僧である源信創建という金田村の光照寺(現浄土真宗・堺市北区金岡町)を保護し、各寺でも秋元氏の供養をしています。
 ところが、丹北郡には秋元氏が祈願する寺がなく、松永家が藩主の供養をしたのです。喬知が正徳4年(1714)に亡くなった後、四郎右衛門は敷地内の一間半(約2.7メートル)四面の観音堂の相殿に藩から下された喬知の位牌を安置し、朝夕礼拝を欠かしませんでした。
 今も、愛染院・光照寺・明教寺には喬知以後、幕末まで六代にわたる藩主の位牌が厨子内に安置されており、松永家に祀られているものも全く同形式です。松永家にとって、藩主の来臨を得たことは、何にもまさる名誉であったことでしょう。

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