144 幻の布忍寺梵鐘

更新日:2018年12月13日
拓本の画像
平和の鐘の画像
 

布忍寺鐘銘の拓本(坪井良平『佚亡鐘銘図鑑』昭和52年より)
市民ロビーの「平和の鐘」
口径69.7センチメートル、高さ132.4センチメートル、重さ380キログラム。丹南鋳物師を先祖とし、現在全国の銅器鋳物の90%を占める富山県高岡市の鋳造所の中から金森弘重さんらによって製造された。

平氏が鎌倉時代に寄付した丹南出身 草部信時の鋳造

 市役所正面を入った市民ロビー手前に「平和の鐘」と名づけられた梵鐘が架けられています。平成7年3月、新庁舎の落成記念として、松原中ロータリークラブが寄贈したものです。設置板には「丹南鋳物師が造った布忍寺の鐘を模し、極楽往生を願った銘文を新たに復刻し」とあります。本市が宣言した非核平和都市のシンボルとして、「平和の鐘」が布忍寺の梵鐘をモデルに造られたのです。
 布忍寺は、現在の布忍神社(北新町2丁目)の西南隣にありましたが、明治初年に廃寺となりました(「歴史ウォーク」27)。平安時代の寛治3年(1089)、東大寺4代別当の永興律師の創建と伝え、永興寺ともよばれました。
 本年2月、本市初の指定文化財となった大林寺(北新町1丁目)の等身大の十一面観音像(平安時代後半)は、もともと布忍寺の本尊でした。同時に市文化財に指定された布忍八景扁額(宝永2年・1705)が奉納された布忍神社の祭祀は、布忍寺の社僧が兼ねていました。
 布忍寺は、平安時代から鎌倉時代にかけて南河内でも名が知られていたようです。それは文暦元年(1234)、平氏らが聖舜の代に寄付した梵鐘の存在からも推測されます。もっとも、その梵鐘は江戸時代には布忍寺の手を離れていました。元文2年(1737)に書かれた「布忍山永興寺略縁起」(大林寺蔵)に「文暦元年の冬、住持聖舜の時に平家より寄付せられし鐘、今ハ堺の某といへる寺にぞ有りけり」とあります。堺の某寺に移った鐘は、その後どうなったかはわかりません。
 ただ、幸いなことに安永7年(1778)に岡崎信好が著名な鐘銘を集めて編集した『扶桑鐘銘集』に、布忍寺の鐘銘が次のように収録されていたのです。

河内国 布忍寺 奉懸鐘 右奉懸意趣者 為伴五子往生極楽
文暦元年甲午十二月十八日孝子等
沙弥願西 伴時貞 平国友
平盛澄 菅野姉子 平姉子
別当僧聖舜 東大寺鋳物師草部信時

 願西が願主で、時貞から姉子までの平氏など五子が往生極楽を願って寄付したと思われます。奈良・東大寺の鋳物師草部信時が造りました。鎌倉時代、草部氏は東大寺に所属していましたが、公家の九条兼実の日記『玉葉』に草部氏は「河内国鋳師」と記されています。
 草部氏は、平安時代末期から室町時代初めにかけて活躍した丹南鋳物師ともよばれる技術者集団の一員でした。鋳物師たちは今の堺市美原区黒山や余部、東区日置荘を本拠地としていました。また、市域の丹南・岡・立部でも工房を構えていたことがわかっています。彼らは12から13世紀に鋳造され、現存する全国の梵鐘81口のうち、62%にあたる50口を鋳造し、河内から各地へ移った鋳物師も含むと、80%にも及んだのです。
 今は亡き布忍寺の梵鐘ですが、河内の名鐘の一つとして、再評価されるべきでしょう。

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