142 芦田秋窓と天美句会

更新日:2018年12月13日
句碑の画像
襖絵の画像
 

芦田秋窓の「超えし山」襖絵と句碑(敬恩寺・天美東8丁目)
同句は吉井秀風さんによると、「霞の流れを大きく表現し、自然に逆らわず、自然からいただく恵に感謝しつつ歩む生き方を語っている」と解釈できるという。

敬恩寺に残る正岡子規門 現代俳画の祖 秋窓の遺墨

 浄土真宗(西本願寺)の吉井山敬恩寺(天美東8丁目)山門を入った菩提樹の下に、句碑が見られます。「越えし山 行く手の山も霞かな 秋窓」とあり、昭和59年(1984)3月に俳画結社の白扇社が建てたものです。
 この句の作者である秋窓の姓は芦田。名は喜三郎。秋双とも号します。明治16年(1883)、現在の大阪市中央区平野町でローソク製造業を営む家に生まれました。14歳で正岡子規の門に入り、俳句の道に進みました。同門の松瀬青々や青木月斗と共に大阪俳壇の重鎮として活躍し、現代俳画の祖とまでいわれています。
 秋窓は昭和24年(1949)、関西発の女性村長(兵庫県武庫郡良元村―現宝塚市仁川周辺)でも知られた弟子の岡田指月(幾)と俳画院を結成し、その3年後の27年には俳画誌「白扇」を創刊したのです。俳画は、俳味のある略筆の墨画や淡彩画で、俳句の賛を添えます。とりわけ、秋窓がめざした俳画は、大自然の中に脈々と波打つ自然のありのままを写生することでした。それは、空間を生かした俳句・画・書の不即不離の三位一体を基本とすることでもあったのです。
 白扇社友は、関西を中心に広がっていきましたが、なかでも敬恩寺は河内における重要な句会の場となりました。その理由は、敬恩寺の吉井章現住職の祖母である秋香(菊)が昭和26年から秋窓に師事し、同寺で天美の人々らと天美句会を楽しんだからです。大阪市阿倍野区阪南町に住んだ秋窓はお寺をたびたび訪れ、指導につとめました。時には何日も逗留し、多くの作品を襖や屏風・衝立に描き、また掛軸・色紙・短冊を残したのでした。今も、彼の遺墨が吉井家に数多く所蔵されています。まさに、秋窓俳画の寺といえるでしょう。
 そのうちの一つが、句碑に刻まれた作品だったのです。秋窓は昭和29年6月、同寺で行われた天美句会のあとも4、5日寺にとどまり、座敷の入口側と右側襖の各四面すべてに高野山(和歌山県)の天をつらぬく杉木立を描きました。そして、右側襖絵に「越えし山 行く手の山も 霞かな」と賛したのです。また入口襖絵には「月あかり いつか夜明けて ほととぎす」とよみ、引き手の下に「昭和29年6月 天美句会の日 吉井山にて 秋窓」としたためています。
 秋窓・白扇社との機縁をつくった秋香は昭和31年、59歳で亡くなりました。秋窓も41年に83歳で逝去しますが、義母秋香を継いだ吉井秀風(英子)さんが秋窓・指月らのあと、今では白扇社を主宰し、敬恩寺などで俳画を広めています。
 天美東8丁目の池内総合会館前に秀風さんの「ふれ合ひの 和が輪をひろぐ うらゝかや」の句碑が平成8年3月、池内自治連合会によって建てられました。秋窓の遺志を受けつぎ、お寺の前坊守として、地域のコミュニケーションを願う秀風さんの気持ちがよみとれるでしょう。

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