143 小川村吉永氏の信仰

更新日:2018年12月13日
庵寺旧蔵の聖観音像の画像
吉永氏銘の宝篋印塔の画像
深居神社旧鳥居の画像
 

(左)庵寺旧蔵の聖観音像(野中寺蔵・元興寺文化財研究所提供)
(中)吉永氏銘の宝篋印塔(野中寺境内、西側塔跡に所在)
(右)深居神社旧鳥居(小川5丁目)
奥に拝殿がみえる。参道南側に新鳥居が建てられている。

聖観音像を祀る庵寺を建て野中寺や深居神社を支援

 小川4丁目の大坂街道沿いに吉永稔さん宅があります。江戸時代、吉永氏は聖徳太子遺跡(中之太子)で有名な野中寺(羽曳野市野々上)の支援者の一人でした。
 野中寺は真言宗(高野山)に属していますが、これは明治時代以後のことです。江戸時代は律宗の戒律修行道場、つまり僧侶の学校で、檀家は持っていませんでした。吉永氏が檀家となるのは近代に入ってからですが、野中寺墓地に残る吉永氏の30基もの墓石には、江戸時代半ばの宝永・享保・元文などの年号が入った五輪塔や無縫塔もみられます。同氏出身の僧もいたのです。
 江戸時代、吉永氏が野中寺と関わるなかで特筆されるのは、もともと正面山門であった現東門を寄進したことです。野中寺6世の湛堂慧淑の時代、正徳3年(1713)の間ですが、湛堂が喜捨した吉永居士に宛てた感謝状が吉永家に蔵されています。湛堂手書と記した書状には年月日がありませんが、野中寺は享保年間に地蔵堂以外火災にあったと伝えることから、山門も火災後に再建されたのでしょう。
 また、庫裏に祀られている平安時代の釈迦如来像を納める厨子は安永5年(1776)9月20日につくられたことが墨書銘によって知られます。そこには吉永氏(「小川義貞尼」)が誉田(羽曳野市)や小山・野中(藤井寺市)の信者らとともに、その厨子を寄進したことも記しています。
 吉永氏は野中寺に供養塔も建てています。野中寺創建時(7世紀)に建立された塔跡の奥に3基の宝篋印塔が並んでいますが、その右側のものが吉永氏塔です。年号は入っていませんが、高さ2.21メートル。塔身に金剛界四方仏の種子が刻まれ、「河州丹北郡比(小)川村 吉永氏」とあり、江戸時代中期のものです。
 吉永氏の信仰は、野中寺だけにとどまりませんでした。小川の敷地内に庵寺とよばれる個人的な持仏堂を建て、聖観音像を祀っていました。明治2年(1869)の伊勢灯籠(「歴史ウォーク」140)が建っている東側が堂址でした。庵寺は明治初期に廃寺となりましたが、その折、聖観音像は野中寺に移され、今も祀られています。野中寺大師堂の南脇檀にある像高108.3メートルの聖観音がそれです。木造玉眼古色仕上げで、頭や体部は二材で矧ぎ、均整のとれた中央仏師の手になると思われます。調査された元興寺文化財研究所の高橋平明さんは、鎌倉様式に復古した江戸時代前期(17世紀)の製作とみられています。
 一方、吉永氏は小川村の氏神である深居神社にも保護を加えました。平成7年(1995)の阪神大震災で鳥居の笠や貫が壊れましたが、今も両柱の残る旧鳥居を貞享4年(1687)に半兵衛が寄進したのでした。柱に建立由来を記し、「小川村半兵衛 喜捨」と刻んでいます。
 吉永氏が野中寺・庵寺や深居神社に残した文化遺産は、地域の豪農と信仰を知るうえで貴重なものといえるでしょう。

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