138 河村新吾上棟の更池だんじり

更新日:2018年12月13日
更池だんじりの写真

称名寺を出発するだんじり
称名寺本堂は19世紀前半の文化・文政年間の建築。安政5年(1858)や明治33年(1900)に修復されたが、地車研究家の調査によると、彫又一門が更池だんじりだけでなく、本堂や門の彫物も細工した可能性があるという。

明治14年、金田村の大工 堺の彫又が彫物を細工か

 10月12日、3年ぶりに南新町の更池だんじりが氏神の布忍神社(北新町2丁目)の秋祭り(14・15日)にあわせて町内を勇壮に曳行しました。更池地車巡行実行委員会(竹田保名誉会長)の下、前日、檀那寺の浄土真宗本願寺派の称名寺(南新町2丁目)前に飾りつけられただんじりは、木南康昭住職による仏説阿弥陀経のおつとめをうけ、午前10時に出発。南朝楠木氏の菊水紋のハッピをまとい、三味線や太鼓・鉦にあわせながら子どもや大人たちは、久しぶりにひくだんじりに酔いしれたのです。1キロほど離れた布忍神社には昼前に到着し、寺内成仁宮司のお祓いをうけたのでした。
 更池だんじりは、板勾欄出人形式とよばれます。市内にあるだんじりの中で最も古くて大きく、製作年や作者の銘もあり、豪華な彫物から折り紙つきの動く重要美術品ともいえるでしょう。
 以前から、後面の見送り正面に「細工人 金田村住人 大工河村新吾光保」と刻銘があることは知られていました。平成8年には地車研究家らの調査によって、大屋根裏面に墨書で「明治十四歳七月二日上棟 地車御棟牘 河内国八上郡金田村住人 河村新吾光保作之」とあること。前面の車板表面にも「萬代も更池の郷より布忍の神乃神幣を捧ぐ」の歌が記され、裏面には「板車 大道町 河陽金田産 彫刻細工人河村新吾 藤原光保」の朱書が見られることが報告されています。
 これらの銘から、だんじりづくりで有名であった金田村大道町(現堺市北区金岡町の金岡神社地)の河村新吾が明治14年(1881)7月に上棟したことがわかります。また、最近、新吾の関係者宅から「地車仕様之図 明治十四歳六月吉辰 河内国八上郡金田邨 河村新吾」と記した更池だんじりの貴重な絵図も研究家の村岡眞一さんによって発見されました。
 だんじりはけやき製。高さ4.3メートル、幅2.4メートル、奥行き3.6メートルの堂々としたものです。正面の板勾欄には豊臣秀吉や、加藤清正・福島正則が活躍した賤ヶ岳の戦い。見送りには古代中国の物語に見られる飛龍退治や大鷲退治。左右下側の泥幕には源平合戦の宇治川の先陣争いや、平敦盛と熊谷直実との対決が見事に彫られています。
 9月末、世話役の方々のご好意で、神戸の上地車研究会(渡辺淳氏主宰)のメンバーらとだんじりを見せていただきました。見送りの刻銘は確認できましたが、墨書や朱書銘は薄れ、読みづらくなっていました。ただ、渡辺さんの話では、新吾が大工をしたことは間違いない。しかし、各地のだんじりでも知られるように緻密な彫物細工であることから、彫物は堺の大町(堺区)で活躍していた彫師の彫又(西岡弥三郎)が主に担い、新吾の名で代表させたのだろうと推測されておられます。
 更池だんじりは、府内に残る優秀なだんじりの一つであり、誇りうる郷土の文化遺産として保護・保全し、次世代に継承されることが望まれるのです。

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