153 立部に祀られる土師弁財天

更新日:2018年12月13日
土師弁財天

土師弁財天(立部1丁目)
江戸時代、道をはさんだ南側に弁天屋敷があった。2005年再建のお堂の西側に摂社の白姫龍神社が祀られている。

江戸時代から信仰される八臂座像・豊満な弁財天

 浄土真宗大谷派の栄久寺(「歴史ウォーク」50)が建つ立部1丁目あたりは、古い民家が数多く残っています。立部の地は、土師姓の家が今も多く見られるように、古墳時代の大和政権に仕えた豪族の土師氏が居住していたと伝承されています。学問の神として有名な平安時代の菅原道真は、土師氏の出身でした。その栄久寺の北側に、土師弁財天を祀るお堂があります。
 江戸時代末期の天保14年(1843)7月に記された「河州丹北郡立部村明細帳」(立部1丁目・薮野圭市氏蔵)に、次のような記述が見られます。

弁才天御社
 右ハ御年貢地ニて、庄屋亦助所持之屋敷ニ御坐候、御収納者同 (人カ)弁納仕候、社修復・祭礼等者村中より仕候、支配者百姓庄兵衛与申者仕来、神主・禰宜等無御坐候

 明細帳とは、江戸時代の各村々の概要を記した帳簿です。領主が命じて一村ごとに書き出させたもので、村高・家数・人数のほか、物産・寺社・河川などが記載されました。現在でいえば、「市勢要覧」とでもいえるでしょう。
 それによると、立部村の弁財天は庄屋の亦助が所有する屋敷に社を建てて祀られていますが、社の修復や祭礼などは村人が行っていたとあります。また、宮司や禰宜などの神職は常住せず、庄兵衛という百姓が管理していました。
 亦助は庄屋の薮野竜助をさし、当人が所有する屋敷は弁天屋敷とよばれ、栄久寺の西側にあたりました。今では住宅などが建ち、その遺構は残っていません。その後、弁財天は薮野家(「歴史ウォーク」152)で祀られていました。さらに、縁あって弁財天を信仰する地元の方によって、新たに弁天屋敷の北側にお堂が建てられ、土師弁財天として、今に至っているのです。
 堂内の天井には、162枚にもおよぶ花・木・草などの彩色を施した彫刻が全面に貼り付けられ、荘厳さをかもしだしています。
 厨子に収められた弁財天は、江戸時代前半の17世紀中頃に立部に祀られたといわれています。七福神の一つとして、広く信仰されました。手が8本あって、ふっくらとした八臂座像で、様々の武器を持ちます。江戸時代には、勝運守護の神様として知られていました。弁財天のまわりには、眷属として衆生に福知を授ける善財童子など十六童子も祀られています。
 境内には、弁財天が水神としても信仰されましたので、龍女とされる白姫龍神社が摂社として鎮座し、同じく水神を祀る井戸も伝えられています。また、弁財天堂の背後には、弁天桜とよばれる一本の桜の親木から5本の子木が出る珍しい木もあり、桜の季節には参拝者の目を楽しませています。毎年4月3日には、例大祭がとりおこなわれ、多くの人々が訪れます。
 江戸時代以降、立部の人々によって信仰されてきた弁財天は、今でも土師弁財天として立部の地で守り続けられているのです。

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