154 若林・立法寺の創建と住職

更新日:2018年12月13日
立法寺の画像

立法寺(若林1丁目)
平成21年4月に、新しく本堂・山門が建て替えられた。保存講の人々が顕彰した法救碑は、本堂前に建てられている。

17世紀後半に寺号や絵像を得た真宗大谷派

 若林1丁目に真宗大谷派の立法寺があります。昨年4月、新しく本堂が建立したことを機に立派な記念誌が出版されました。摂河史料調査会の編による『立法寺 その成り立ちと信徒・建築・集落を探る』です。近世河内の真宗寺院と村の歴史を多様な視点から調査したものとして、学術的にも貴重な成果が明らかにされたのです。目次は、第一部が「立法寺の歩み 江戸時代を中心に」(木下光生さん)、第二部が「立法寺の建築について」(妻木宣嗣さん)、第三部が「若林村の歴史」(荒武賢一朗さん)からなります。その書物を、お寺からご恵贈いただきました。
 今回は木下さんのご執筆などを参考にさせていただき、立法寺の創建や住職について紹介します。
 立法寺は、安政4年(1857)の「自庵願いにつき諸事扣」に文禄3年(1594)の豊臣秀吉の太閤検地の際、除地(免税地)であったと記していますので、この時までに道場が建っていたのでしょう。
 寛永17年(1640)7月には、東本願寺を創始した教如の真影や本尊の「木仏尊像」を東本願寺から下付されたことが、先の「自庵願いにつき諸事扣」にみられます。また、東本願寺で書き続けられてきた「申物帳」には、寛文6年(1666)9月に「立法寺」の寺号と親鸞絵像を下してくれるように申請が行われたとあり、寛文8年(1668)9月に、寺号と絵像が与えられました。同寺には、この絵像と同じ寛文8年に下された聖徳太子像や七高僧像が今も残っています。
 このことから、立法寺は17世紀後半に本山・東本願寺の直参末寺となったことがわかります。ただ、現八尾市の慈願寺、のちには同じく八尾の大信寺が本山と末寺の間に立つ中本山の立場で介在しており、二重の系列におかれていました。
 歴代住職については、江戸時代前半の頃は不明ですが、享保21年(1736)、義霊が現八尾市福万寺の光蓮寺から看坊として寺の管理をまかされました。だが、義霊は5年で寺を去り、寛保元年(1741)には現滋賀県長浜市高月町の祐存寺から来た恵暁に寺はゆだねられました。もっとも、恵暁の在任も2年にすぎませんでした。
 寛保3年(1743)以後は、泰應が入り、のち息子の泰圓、孫の圓随が継ぎ、世襲が確立するかに見えました。しかし、明治12年(1879)に新たに榛間法海が住職になったのです。
 榛間家は、播磨(兵庫県)赤穂の出で、現大阪市平野区瓜破東の敬正寺の住職でした。すでに正徳4年(1714)以降、敬正寺に入寺していました。敬正寺は、瓜破に居住したと伝える道昭(行基の師僧)が大化年間(645から649)に建てたという永楽寺の遺跡に建つ寺でした。法海は敬正寺住職を勤めながら、立法寺住職も兼ねたのです。
 まもなく、法海の父の法住は、法海の弟の法救を連れて立法寺を隠居寺としました。法救はその後、住職を継ぎ、昭和5年(1930)3月、立法寺保存講によって、「釋法救法師」の碑が境内に建てられました。現在、その榛間家が住職を世襲して今に至っています。
 なお、立法寺と地域との関わりや建築などについては、次号で触れることにしましょう。

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