151 柴籬神社の三十六歌仙図

更新日:2018年12月13日
三十六歌仙図左の画像
三十六歌仙図右の画像
奉納板の画像

柴籬神社拝殿の左右に18図ずつ掛けられた三十六歌仙図
写真上は拝殿向かって左側、中は右側の図。拝殿左側には立部村氏子26名の名を記した奉納板も残る。

嘉永7年、立部村26名が反正天皇の氏神社に奉納

 市域東南部に、立部の古い町並みがみられます。江戸時代、河内国丹北郡立部村でした。5世紀頃の18代反正天皇がミヤコとした丹比柴籬宮へ、この地の人々が土師器を献上し、多治部と称した伝承から、土師村とも呼んだといわれています。
 丹比柴籬宮は、反正天皇を祭神として、のちに創建された柴籬神社(上田7丁目)あたりに置かれたと伝えています。立部の人々は、柴籬神社を氏神としており、「土師」姓の多いことでも知られています。
 江戸時代中頃の享保20年(1735)に出された『河内志』の中に、丹北郡の「製造」として「土盌立部村造」とあり、立部村では土器づくりが盛んでした。
 『日本書紀』に、反正天皇は多遅比瑞歯別天皇とよばれ、淡路宮で生まれたとあります。ここに瑞井とよぶ井戸があり、この水を汲んで幼子の天皇を洗ったといいます。「淡路」は、「タンジ」とも読めます。そこで、「タンジ」宮と多遅比が結びつき、天皇は丹北郡の丹比地方で生まれたと想定されました。鯉野池の東側、柴垣1丁目に今では埋められ忘れられていますが、「おかめ井戸」があり、天皇産湯の井戸と伝えられていました。
 さて、立部村の氏子26名は、江戸時代末期の嘉永7年(1854)8月、柴籬神社に三十六歌仙図を奉納しました。
 三十六歌仙とは、平安時代後半に藤原公任が大伴家持・山辺赤人・柿本人麻呂・在原業平・小野小町・紀貫之などすぐれた36人の歌人を選んだものです。この36人の肖像に代表的な和歌一首を添えたものを三十六歌仙図とよびます。室町時代以降、歌仙図を絵馬として、和歌の上達を願って寺社に奉納するようになりました。
 柴籬神社に奉納された三十六歌仙図は、拝殿の左右に18図ずつ分かれて掛けられ、36図すべてが完存しています。いずれも天地48.5センチメートル、左右33.5センチメートルの紙本著色です。とくに、興味をそそがれるのが紀貫之の肖像です。多くの像は斜めを向いていますが、本像は正面向きに描かれ、特色ある絵といえるでしょう。
 同時に、「奉納三拾六歌仙」の題のもと、「嘉永七甲 寅年八月吉祥日」に「立部村氏子中」の薮野才助・石田惣右衛門・西田治郎右衛門・土師元右衛門・土師清市・黒川久右衛門・石田紋次郎・土師兵右衛門・北里庄五郎・西田五兵衛・森田増右衛門・土師市兵衛・土師定五郎・土師伊右衛門・黒川柳平・山口勝右衛門・薮野清治郎・石田伊平治・北田新次郎・多田宇右衛門・林利右衛門・林甚兵衛・土師弥三郎・土師富治郎・土師政右衛門・新田又右衛門の26名が奉納したことを記した奉納板も拝殿に掛けられています。
 また、「世話人」として奉納者の中から、石田紋次郎・黒川久右衛門・土師定五郎・土師伊右衛門・土師兵右衛門の5名が併記されています。
 三十六歌仙図は、反正天皇や柴籬神社を敬う立部村氏子の貴重な文化遺産といえます。

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