152 秋元氏が支配した立部村

更新日:2018年12月13日
長屋門の写真
「富士」絵
 
徒党札の画像

高札場のあった四つ辻(ふらば)から薮野家長屋門をのぞむ(立部1丁目)
東から撮影。
「富士」絵、明和7年(1770)の「徒党札」
(いずれも薮野家蔵)

薮野家に残る狩野常信の「富士」と四つ辻の高札

 立部1丁目の浄土真宗大谷派の栄久寺(「歴史ウォーク」50)の北側に、薮野圭市さん宅があります。現在、主屋は瓦葺きですが、もともとは茅葺きで、ひさしのみ瓦を葺いていました。のちの増改築はありますが、江戸時代後半の19世紀初頭ごろに建てられたとみられています。
 江戸時代、薮野家は河内国丹北郡立部村の庄屋を勤めていました。当家の「過去帳」は享保20年(1735)を上限としており、現主屋の前に使われていた宝暦7年(1757)銘のある鬼瓦も保存されています。
 立部村は、江戸時代初めは幕府領でした。のち、宝永2年(1705)より武蔵国川越(埼玉県)の藩主秋元但馬守喬知が支配し、以後、秋元氏の領地として幕末に至りました。薮野さん蔵の天保14年(1843)7月に記された「河州丹北郡立部村明細帳」によると、当時、立部村の家数は73軒、人口は334(原文のママ)人(うち僧侶2人、男168人、女167人)でした。
 宝永6年(1709)、秋元喬知は領地の河内国を巡見しました。江戸幕府の老中にもなった喬知は京都へ上ったのを機会に、立部村に立ち寄りました。
 その際、箱書に「富士」の題を持ち、「三保」と添えた絵を薮野家に下したのです。今も、同絵が薮野さん宅に残っています。絵の右下には「常信書之」のサインがあり、狩野派絵師として名高い狩野常信(1634から1713)の作と伝えています。秀麗な雪をいただく富士山と駿河湾の景観をいろどる三保松原をダイナミックに描いています。左右約160センチメートル、天地104センチメートルを測ります。
 この時、喬知はやはり領地となった隣村の松原村(岡村)庄屋の松永家にも、同様の「富士」の絵を下しました(「歴史ウォーク」128)。
 ところで、薮野家や栄久寺の東側は四つ辻になっており、人々の往来が頻繁でした。このため、四つ辻には村人に幕府や藩からの法令や禁令などを記した高札を掲示する高札場が設けられていました。先述の天保14年の「立部村明細帳」には「御高札場」とあり、「御領主御普請所」「梁行三尺五寸 桁行五尺五寸但、瓦葺・石かけ、右ハ村中四ツ辻ニ往古より御座候」と書いています。
 高札場が明治時代に撤去された後も、四つ辻は「ふらば」と呼ばれ、長い間、当時の石垣が積まれており、人々の中で生き続けました。
 薮野さん宅には、この時に掲げられていた高札が2枚保管されています。一つは、明和7年(1770)4月に「奉行」の名で出された徒党札です。農民が大勢集まって徒党を組んではいけないこと。また、そのようなことを見つけた場合は懸賞金を出すから密告せよなどと記しています。もう一つは、文字がかすれてはっきり読めませんが、キリシタン札です。江戸幕府が禁教であるキリシタンの信者らを検挙するために掲げたものです。
 薮野家の資料は、こうした支配者と村政との関わりの一端を知ることのできる歴史遺産なのです。

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