150 井宮家と石造不動明王像

更新日:2018年12月13日
石造不動明王像お堂
石造不動明王像の画像

石造不動明王像(河合5丁目)
堂の右前には、延享2年銘の石燈籠が建てられている。

河合村の「不動前」で信仰 延享2年、堂・石燈籠を建立

 河合6丁目の尻池北東堤に、ため池の「記念碑」が見られます(「歴史ウォーク」149)。河合の農家の人々が昭和28年(1953)に建てました。この碑の真向かいにお堂があり、中に石造の不動明王立像が祀られています。「不動明王宝前」と記した花崗石の石燈籠も建てられており、裏面には風化が著しいですが、「延享二年乙丑六月吉日 河合村」と刻んでいます。
 堂内に安置する不動明王は中央で割られており、下部は元来の安山岩製ですが、上半身はのちにつけ加えたようです。自然石を残した磐石をあしらった上に整形された舟形光背を負い、体部は半肉彫されています。現高約98センチメートル、像高は約65センチメートルを測ります。体部の下半身周囲には火焔が渦まき、両眼を見開いた忿怒相です。右手に剣を持ち、左手には羂索を下げる通例の姿をあらわしています。もっとも、頭部は巻髪をとらず細長く丸味をおび、全体に柔らかな感じをうけます。
 像は、表現を簡素化した作風やのちに建てられた石燈籠に延享2年(1745)の年号があることから、江戸時代初めごろに造られたと推察されます。ただ、堂に祀られる以前は野外にあって傷みが見られたため、採色や補修されていることが惜しまれます。
 不動明王は江戸時代に入って、現河合5丁目の井宮豊和さん家の初代である速蓮院釈康専の時、井宮家の田畑から掘り出されたと伝えられています。以後、井宮家代々の不動明王として、河合村の人々の信仰も集めて祀られているのです。見つかった場所は、今の河合小学校の北側で、その南には鎌倉時代に造られた古池が水をたたえています。この地は、「不動前」とよばれる小字が残り、不動明王が祀られていたことから名付けられたのでしょう。
 井宮家の系図によると、3代当主の昭徳院釈重貞が延享2年6月に、発見した地に堂を建て、不動明王を祀ったとあります。重貞は明和2年(1765)に亡くなりますが、のち8代当主となった釈行清の慶応2年(1866)に、今も残る石造の香華台・供物台・花筒が設けられました。一部、新しく造り直されましたが、「世話人中」「慶応二年寅歳」の文字が刻まれています。
 不動明王を祀る堂や石燈籠などは、昭和40年代前半に現在の尻池堤に接する地に移されました。元の建立場所から西に200メートルほど離れた移転地は、霊場高野山(和歌山県)に向かう下高野街道(府道大阪—狭山線)に面しており、不動明王を祀るのにはふさわしい場所といえます。
 今では、毎年1月28日の初不動の日、薬師如来で有名な平松寺(高野山真言宗、堺市美原区小寺)のご住職が不動明王の前で護摩を焚き、おつとめをされます。
 市域には、石造不動明王像の遺存はそれほど多くありません。上部の像容が後補されたとはいえ、石燈籠に刻まれた延享2年の年号や井宮家の記録を通じて、その来歴がわかる本像は貴重な石仏のひとつといえるでしょう。

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