148 称名寺に施された彫物

更新日:2018年12月13日
称名寺の画像
「蓮如上人御旧蹟」碑の画像
 

称名寺と「蓮如上人御旧蹟」碑(南新町2丁目)
山門の東側、下高野街道に面して本願寺中興の祖である蓮如(本願寺8世)の記念碑が建つ。寺の和讃講の人々が昭和に入って「進納」した。

更池だんじりに先駆ける彫又 又兵衛・弥三郎作か

 昨年(平成20年(2008))10月、布忍神社(北新町2丁目)の秋祭りにあわせて曳行された豪華な更池地区のだんじりは、多くの人々を魅了しました(「歴史ウォーク」138)。更池だんじりは、明治14年(1881)に堺市大町の彫又一門の西岡弥三郎が彫り、堺市金岡の河村新吾が大工を担うなど、貴重なものです。このため、愛好家らは改めてだんじりの見学を望まれたため、地元のご好意で本年(平成21年(2009))3月1日、青少年会館東側のだんじり庫で見学会が持たれました。
 当日、大阪府内をはじめ奈良・神戸などから多くの人々がつめかけました。その折、近くの称名寺(南新町2丁目)の彫物も木南康昭住職のご協力で実見されたのです。なぜ、愛好家が称名寺の見学を希望されたかというと、更池だんじりの彫物と寺の彫物とが同様式で、彫又の作事ではないかと考えられたからです。
 称名寺は浄土真宗本願寺派で、正徳元年(1711)6月の更池村の「寺院取締帳」(南新町・田中家蔵)には、西本願寺を本山とする京都七条の万宣寺の末寺とあります。当時、元禄5年(1692)11月に普請されたかや葺きの堂が建っていました。開基の年はわかりませんが、延宝年間(1673から80)に地主の忠五郎が堂を守り、その後、貞享4年(1687)までは与惣右衛門が受け継いでいます。同年11月には、称名寺の寺号を西本願寺より与えられたとあります。これ以後、村の惣道場となって看坊(僧侶)も常住したのです。
 西本願寺の史料によると、本尊の阿弥陀如来像も寛文8年(1668)に与えられていました。
 文化6年(1809)以降、本堂再建が少しずつ行われ、安政2年(1855)9月にはこれまで西向きであった本堂を東向きに建て直し、山門・庫裏・太鼓楼・井戸屋形・土蔵も整備されていきました。明治6年(1873)ごろの境内図面を見ると、ほぼ今と同じ配置・規模であったことがわかります。
 愛好家による彫物調査に基づくと、山門の虹梁枡には迫力ある青龍が施されています。本堂前の井戸屋形を見ると、枡合4面と4本柱の木鼻8組、合わせて12面に子・丑など十二支が彫られています。また、山門横の土蔵屋根には、更池だんじりでも見られた獅子噛みと同様の鬼瓦が添え付けられていました。
 本堂に入ると、外陣柱間虹梁の蟇股10面にだんじりのモチーフの一つになっていた中国二十四孝の彫刻を配置しています。岸和田市のだんじり研究家の大東宏彰さんは、安政6年(1859)5月上旬と書かれた墨書を数か所発見され、「施主弥三郎」「施主利兵衛」の名も残っていました。
 これらは、作風から更池だんじりを彫った西岡弥三郎(当時21歳)か、師である父の又兵衛(明治13年没)作ではないかと推測されています。明治14年のだんじり奉納に先駆け、幕末に彫又が称名寺の再建に一役かったのでしょうか。称名寺を檀那寺とする人々の歴史の一端を、彫物から再考した見学会でした。

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