149 河合の古池・尻池「記念碑」

更新日:2018年12月13日
記念碑の画像

尻池北東堤に建つ「記念碑」(河合6丁目)
下高野街道(府道大阪-狭山線)をはさんで、右に尻池、左に古池が水をたたえている。北から撮影。

田畑を潤す命の池を顕彰 小学校4年生の授業に活用

 現在、小学校3・4年生は社会科の授業で自分たちの住んでいる身近な地域について学んでいます。文部科学省が示す『学習指導要領』は、歴史的分野の内容として「地域に残る文化財や年中行事」、「地域の発展に尽くした先人の具体的事例」をあげています。
 児童たちは、社会科教科書とは別に、地元のことが理解できるよう郷土を紹介した副読本も使っているのです。『わたしたちの松原市(3・4年)上・下』という2冊の教材です。市内の先生方による「私たちの松原市」編集委員会が各地を歩き、古い写真をはじめ、最新の写真や図版を数多く掲載し、イラストも加えてわかりやすく解説したものです。一般の方にも、楽しい読物といえるでしょう。松原市教育委員会が発行しました。4年生が学ぶ『下』には、「きょう土を開いた人びと」があげられ、その中に「池のふしぎ発見-水とわたしたち」の項目があります。
 そこで恰好の教材として取り上げられたのが、河合6丁目の尻池北東堤に残されているため池改修の「記念碑」です。河合の西部を下高野街道が走っていますが、この古道に西接して尻池がみられます。また、道をはさんだ東側には古池が水をたたえています。
 古池は、公園整備にともない松原市教育委員会が発掘調査をしており、鎌倉時代半ばごろにつくられていたことがわかりました(「歴史ウォーク」14)。尻池については、河合などを貫流する西除川筋のため池の多くは、農業生産の向上によって、江戸時代前半以降に掘削されていますので、尻池も古池だけの水では足りなくなって、新しく街道をはさんで拡張されたのでしょう。
 自然石に彫られたため池「記念碑」の裏面に、建立由来が書かれています。副読本はその碑文を読みやすく記していますので、枠内に引用させていただきました。碑は、昭和28年(1953)2月に河合の農家の方々が建てました。
 文中の昭和25年の台風とは、大阪に甚大な被害を与えたジェーン台風をさします。河合が昭和32年、松原市に合併する前の南河内郡北八下村当時の碑で、行政変遷上でも興味の深いものです。
 河合の人々は力を合わせて、田畑を潤す命の源である古池や尻池を改修してきました。池づくりに精魂をこめた先人の思いを、河合の記念碑は物語っています。それは、次世代を担う子どもたちが水の大切さを心に刻む石碑でもあるのです。

記念碑文の意(松原市教育委員会転載許可済)

ずっと昔から、古池や尻池は、田畑をうるおすための命の水でした。しかし昭和二十五年九月の台風にあってから、いろいろなところがつぶれて、池としての働きが悪くなってしまいました。そのために、田畑はもうたがやすことができないぐらいになってしまいました。そこで農民は、みんなで力を合わせて「池のしゅう理をしよう」とちかい合いました。それから三年の長い間、いろいろなこんなんがありましたが、工事を無事終えることができました。そのおかげで、池のはたらきは、以前よりもよくなり、農民の一人一人が安心して、農業にはげめるようになりました。
このみんなで力を合わせてやりとげた工事は、大変ねうちのあることだから、協力した人達の努力をたたえ、えいきゅうに記念します。 昭和二十八年二月 田畑をたがやしている者一同 北八下村大字河合領 工事委員一同

執筆者注

「学年別漢字配当表」によって小学校4年生までに学習する教育漢字に従っており、ひらがなを多く使用している。また、漢字にルビも付けられていたが、省略した。

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