146 石造「布忍橋」を記念した標石

更新日:2018年12月13日
田中家住宅の画像
「布忍橋」標石の画像
 

「布忍橋」標石(南新町3丁目)と田中家住宅(南新町1丁目)
標石は田中家長屋門北東角に移されていた(写真右隅)。主屋は宝永6年(1709)の普請(建築)。文政年間(1818から1830)に大増改築を行い、長屋門も立て替えられた。清右衛門時代の天保年間(1830から1844)には屋根を茅葺きから瓦葺きに変えている。平成21年3月、国の登録文化財となった。

西除川を渡る長尾街道に更池村が天保3年に建立

 南新町3丁目のふれあい人権文化センター前に「布忍橋」「天保三年壬辰七月 更池村」と力強く彫られた標石が見られます。これはもともと、更池村が天保3年(1832)7月に西除川に架かる長尾街道の布忍橋北西詰に建てたものです。ここには、寛政8年(1796)12月に更池村の多聞院(真言宗)の僧龍昌が造った惣井戸(「歴史ウォーク」78)も掘られていました。
 江戸時代、更池村の庄屋をつとめていた田中家(南新町1丁目)に残る次の史料から布忍橋の変遷がわかります。
 明和9年(1772)3月の「河州丹北郡更池村明細帳」に、「一、橋 壱ヶ所 狭山池西除川筋奈良海道筋ニ掛ケ申候」とあります。18世紀後半、西除川を渡る奈良海道ともよばれていた長尾街道に橋が設けられていました。すでに、延享3年(1746)11月の同村明細帳にも農民が造った「板橋壱ヶ所」があり、これを村が修復したのです。
 のち、天保14年(1843)7月の同村明細帳には、「一、石橋 壱ヶ所 幅六尺長サ拾六間 狭山池西除川筋奈良海道筋ニ御座候 天保弐年卯九月廿五日 御公儀様江御願奉申上 石橋相掛ヶ申候」と書かれています。このことから、幕府に願い出て、天保2年(1831)9月25日に幅約1.8メートル、長さ約29メートルの石橋が架け替えられたことがわかります。
 石橋の設置までは、延享3年の記述や明治5年(1872)2月の同村明細帳に「往古板橋之処、天保二年卯年(中略)石橋相掛ヶ申候」とあるように、板の橋だったのです。
 幕末に立派な石の橋ができたので、村の人たちは新たに橋名を付け、記念石を建てようと願いました。嘉永元年(1848)7月の田中家の「永代過去帳」は、庄屋として村政にあたっていた当主(9代)の田中清右衛門紀定が頭取となって、布忍橋と名付けたと注記しています。
 西除川はこのあたりで布忍川とよばれていたことや、石橋が更池村だけでなく、広く布忍地域を代表することから、布忍橋と命名したのでしょう。架橋から10ヵ月後の天保3年7月に標石は完成しました。清右衛門をはじめ、多くの村人たちが世話人として、石面に名を刻んでいます。
 ところが、いつのころからか標石は田中さん宅前北東角に移されるようになりました。戦前、この石に背もたれして遊んだことをなつかしく話してくださった方もおられました。それが、昭和41年(1966)9月25日の台風24号の被害で倒れ、一時的に教通寺(浄土真宗)と田中さん宅前の間を流れる溝の足踏みとして転用されたのです。このため、これを憂えた地元の人々が翌10月中旬、郷土の貴重な文化遺産を守ろうと石を溝から取り出し、現在地に保存したのです。
 石橋は、近代化とともに長尾街道の拡幅で撤去されました。布忍橋は、現在では西除川の改修などで幅20メートル、長さ30メートルの鋼橋となり、昭和63年3月に竣工されたものです。

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