147 教通寺の文化遺産

更新日:2018年12月13日
教通寺の画像
川地蔵の地図のイラスト
 

教通寺と川地蔵(南新町1丁目)
更池銀行から移された山門の右側に川地蔵が祀られている。香華台に「更池 川地蔵」とあり、西除川を守る仏でもあった。西除川右岸沿いに天美方面から来た下高野街道は長尾街道と重なって西へ布忍橋を渡り、ここから南に曲がった。地蔵の上部が欠けているのは、同所にあった惣井戸(「歴史ウォーク」78)につながれていた馬が横の道標を蹴ったからだという。

高野・奈良道の川地蔵道標 更池銀行正門を山門に移築

 国登録文化財である南新町1丁目の田中家住宅(「歴史ウォーク」146)東側に、浄土真宗本願寺派の教通寺が建っています。
 江戸時代の教通寺は、同地の更池村庄屋を勤め、檀家であった田中家に残る正徳元年(1711)6月の「寺院取締帳」に「西本願寺宗河州南嶋泉村妙(ママ)教寺下」と見え、京都の西本願寺を本山とする明教寺(羽曳野市島泉)の末寺でした。この時期、東西・南北各五間(約9メートル四方)の境内に藁葺きで庇瓦の堂だけが建っていました。すでに、延宝8年(1680)に西本願寺から下された本尊の阿弥陀如来像に裏書があり、この時に教通寺の寺号が与えられたとあります。
 その後、延享3年(1746)11月の「河州丹北郡更池村明細帳」(田中家蔵)は、堂以外に庫裏もつくられていたことを記し、いずれも瓦葺きになっていました。
 現在、本堂には、もともとは廊下であった所に喚鐘が架かっています。高田典昭住職のご好意で調べてみると、そこには「河州丹北郡更池村教通寺」「安永四乙未二月日寄進施工何某」と刻まれ、別面に「寛政九丁巳正月仕替之 施工田中氏」「治工大坂西高津町新道住今村喜兵衛清次作」と追刻しています。安永4年(1775)に鋳造された喚鐘を、田中家8代当主の清一良が寛政9年(1797)に修復したものでした。
 清一良は文化13年(1816)に亡くなりますが、明教寺に対しても、父の了甫(喜右衛門・安永2年没)と母妙勝(文化7年没)の名で本堂前に一対の天水を寄進し、今も雨水が貯められています(「寄進 更池村 田中氏」「田中了甫 妙勝」)。
 ところで、教通寺は戦前まで本堂と庫裏だけで、山門はありませんでした。そこで、今見られる表門が旧更池銀行から移築されたのです。更池銀行は、明治29年(1896)3月に、田中家12代当主の清らが発起人となって、現新町公民館の場所に設立し、各地に支店も設けていました。しかし、昭和17年(1942)3月に解散し、45年余の歴史を閉じたのです。更池銀行では、株主総会を本堂で行っていたこともあり、翌4月に同寺で銀行関係物故者の慰霊祭もとり行いました。そして、銀行正門は教通寺山門として生まれかわったのでした。
 なお、山門北側には教通寺同行会によって「川地蔵」が祀られています。和泉砂岩でつくられ、舟形光背の上部が斜めに欠けた地蔵菩薩立像です。光背には向かって右側に「旭童女 享保十三戌申正月十三日」、左側に「是南かうや道 東なら婦じい寺」と刻んでいます。
 刻銘からもわかるように、享保13年(1728)に下高野街道と長尾街道が交わる西除川の布忍橋北西詰に建てられた地蔵を形どった道標でした。南に向かえば高野山(和歌山県)、東へ行けば葛井寺(藤井寺市)や奈良に至りました。近代に入り、長尾街道の拡幅によって同所にあった天保3年(1832)の布忍橋標石(「歴史ウォーク」146)とともに移転されましたが、今もご利益のあるお地蔵様として地域の人々に広く信仰されています。

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