160 難波大道の発見

更新日:2018年12月13日
難波大道の画像

検出された難波大道(天美西7丁目)
上が北。すぐ北側を大和川が流れる。道路面に9名の人が立つ。白線で囲った左側が西側溝。右側が東側溝である(大阪府文化財センター提供)。

大和川今池遺跡で出土した難波宮と結ぶメインルート

 平成19年、天美西3丁目の大和川今池遺跡で、家形埴輪を持つ方墳が検出されました(「歴史ウォーク」159)。阪神高速道路大和川線の建設が契機となったのですが、1年後には、古墳から西へ1キロメートルの今池水みらいセンター(天美西7丁目)内で、南北に走る古道が見つかったのです。
 大和川今池遺跡は、古墳時代から中世に至る各時代の集落や耕作地で知られる大阪府内でも有名な遺跡地です。5から6世紀の集落が大和川の河川敷で確認されていますが、そこからは朝鮮半島から伝わった韓式系土器が多く出土していますので、渡来人が天美の地で生活していたのでしょう。
 発見された道路は、7世紀に都が置かれていた難波宮(大阪市中央区法円坂)から南に直進する官道と考えられます。歴史書の『日本書紀』(720年成立)には、推古天皇の21年(613)11月条に「難波より京に至るまでに大道を置く」という記述があることから、計画道の存在が推定され、今から30年ほど前に難波大道という名称がつけられていたのです。
 難波大道は、河内と大和を結ぶ一級国道ともいうべき大津道(のちの長尾街道)とは天美我堂で連がり、また堺市北区金岡で丹比道(のちの竹内街道)に連がりました。東西に走る両道は、松原市域を横切って大和に入り、横大路を経て、下ツ道・中ツ道・上ツ道によって、飛鳥・藤原京や平城京と結ばれました。
 長い間、難波大道のルートは不明でしたが、昭和55年(1980)、同センター建設で、初めて整地された幅約18メートルの古道と排水のための東西2本の溝が見つかりました。
 道路の中心線を北に伸ばすと、長居公園内を通って、四天王寺の東側を経て、大阪城の南側に位置する難波宮の中軸線と一致することがわかったのです。四天王寺の近くには、天王寺区大道の地名が残っています。
 難波大道は、河内国と摂津国の国境を区切り、今も松原市と堺市、住吉区と東住吉区の境界ともなっています。昭和55年の発見から30年。再びその北側延長線上で、南北46メートルの道が姿を現したのでした。道幅は約17メートル、東西両側には幅2メートル前後、深さ0.1から0.7メートルの側溝も伴っていました。藤原京の朱雀大路とほぼ同じ規模ですので、古代国家にとって大切な官道であったことがわかります。
 側溝からは、飛鳥時代の7世紀中葉の土器が出土しており、大化の改新(645年)後、難波に都を置いた孝徳天皇の時に、南北正方位で通る直線道路が作られたと思われます。ただ、『日本書紀』には、推古天皇の7世紀前半に道を設置したとありますので、史料検証は必要ですが、プレ大道が通っていたかもしれません。
 しかし、都が京都の平安京に移って以来、大道はすたれ、10世紀の平安時代には廃絶したようです。潰された道路中央には南北方向に大畦畔が作られ、その周辺は耕作地となったのでした。
 今ではすっかり忘れられた難波大道ですが、市域では、センター南門から西除川を越えた天美我堂に幅18メートルほどの古代のメインストリートが眠っていることでしょう。

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