157 阿保親王を誇った保田元實

更新日:2018年12月13日
西保田家の墓所の画像

西保田家の墓所(阿保7丁目・阿保墓地)
中央に「大江末流」、手前に「在原姓」や毛利氏の家紋が見られる。左手前には、保田元實が父母のために建てた墓碑がある。

阿保墓地に残る阿保親王・在原氏・大江氏・毛利氏伝承

 阿保神社(阿保5丁目)の拝殿に「阿保神社 親王嫡裔41代従五位保田元實謹書」の扁額が掲かっています。現在の阿保の地名は、阿保親王(平城天皇の第一皇子)が平安時代初期、この地に居住したと伝えることから名づけられたものです。阿保親王を祭神とする阿保親王社が阿保神社本殿の北側に祀られています(「歴史ウォーク」23)。
 氏神に扁額を奉納した保田氏は、阿保親王の家系を引いて阿保に住み、戦国時代ごろ、阿保親王の「保」をいただき、姓にしたと伝えています(「歴史ウォーク」101・102)。江戸時代半ば以降、西・東・北・南などの保田氏に分かれていきました。阿保神社に接する真宗大谷派の西徳寺が檀那寺でした。
 保田元實は、西保田家の当主元義の子として明治15年(1882)に生まれましたが、同家は大正前半までには阿保を去り、大阪に移りました。元實は、近衛兵から陸軍少佐となり、軍馬にまたがり故郷阿保をよく訪れたということです。
 阿保墓地(阿保7丁目)の火葬場西側に、元實家が祀った江戸時代の年号を持つ墓石が数基建っています。中央の墓石正面には「大江末流 保田氏之墓」、裏面に「河内丹比阿保村」と書き、年号は見られませんが、江戸時代半ば以降のものでしょう。また、香華台が前に備えられ、「在原姓」や長州藩主毛利氏の家紋も刻まれ、興味をそそります。両横には、宝永5年(1708)や寛政11年(1799)の年号とともに、「保田氏古墳」「西保田氏」と記す古墓もあります。
 保田氏の墓所に名族の大江氏や在原氏の名、あるいは長州藩主毛利氏の家紋が見られる理由は、各氏が阿保親王を祖とすると伝えているからです。在原氏は阿保親王を父として、平安時代初期、仲平・行平・守平・業平が在原朝臣を賜り、とくに業平は六歌仙の一人として有名です。同じく平安初期、彼らと兄弟と思われる音人は大江氏を名のりました。毛利氏は、音人を始祖とし、その父の阿保親王を敬ったのでした。
 文政元年(1818)、長州藩主(11代)の毛利斉煕は、家臣の村田清風を摂津や河内に出向かせました。阿保親王の墓と伝えるものが、現芦屋市の親王塚と阿保近くの河内大塚山古墳(西大塚1丁目)と考えられていたからです。清風は、西大塚村の庄屋治兵衛を案内役として、大塚山の実地踏査をしたことが毛利家文書に見えます。この時、清風が保田氏を尋ねたかどうかは史料では、明らかにされていません。
 現在、保田家墓所の前に、元實が昭和17年(1942)に父母を顕彰した墓碑が建っています。元實の父元義は大正9年(1920)、母辯子は大正14年(1925)に亡くなったことが西徳寺の過去帳に記されています。元實は、墓碑の書き出しを「我大祖出贈一品阿保親王」とし、最後に「従五位勲六等在原朝臣保田元實謹書」としめくくっています。
 阿保親王から出た在原氏・大江氏・毛利氏の家系伝承にこだわった元實は、昭和32年(1957)、寝屋川市秦の自宅で76歳の生涯を閉じたのでした。

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