155 若林・立法寺の普請

更新日:2018年12月13日
立法寺旧本堂の画像

解体された明治15年上棟の立法寺旧本堂と嘉永3年上棟の太鼓楼
摂河史料調査会編『立法寺-その成り立ちと信徒・建築・集落を探る』(平成21年4)より転載(記念誌発刊委員会許可済)。

文化7年・明治15年上棟の本堂、嘉永3年上棟の太鼓楼

 真宗大谷派の立法寺(若林1丁目)は、平成21年4月に新しく本堂などを建て替えました。以前の旧本堂は、明治15年(1882)の建立でした。また、取り壊されましたが、嘉永3年(1850)上棟の太鼓楼も旧山門の北側にありました。前号でも触れましたが、立法寺の歴史を調べた摂河史料調査会は、「立法寺 その成り立ちと信徒・建築・集落を探る」をまとめられました。今回は、妻木宣嗣さんの建築調査から紹介させていただきます。
 旧本堂を解体すると、明治15年の棟札とともに、文化7年(1810)9月24日に上棟した「本堂再建上棟札」が屋根裏に付けられていました。そこには、明治15年建立の前の本堂で、古市郡西浦村(羽曳野市)の大工太郎兵衛と丹北郡大堀村(松原市大堀)の大工五兵衛が棟梁として普請にあたったことが記されています。
 江戸時代、摂津・河内・和泉や大和、山城の大工たちは、京都の大工頭であった中井家の支配下にありました。そして、その下には各地域ごとに大工組が設けられており、大工たちはいずれかの大工組に所属していました。河内には6組の大工組があり、大堀村や西浦村の大工は、石川郡新堂村(富田林市)の新堂組によって統轄されていました。
 立法寺には、前年の文化6年2月25日に出された本堂や庫裏の普請願書が残っています。当時、寺が普請を行う場合、大坂町奉行所へ書類を届け出て、許可を得ることが必要でした。立法寺のほか、若林村の庄屋や年寄、大工が連名で出しています。この時は、本堂の柱が朽ちたので根継ぎを願い出ています。
 翌文化7年6月には、これまでの桁行六間半、梁行三間のわら葺の本堂を瓦葺きにしたい旨を大坂町奉行所に届け出ます。そして、5年後の文化12年(1815)2月に、本堂が完成しました。
 文化12年に出来たこの本堂が、明治15年に旧部材を一部転用して建て替えられたのです。
 同時に、取り壊された太鼓楼にも普請文書が残っていました。安永2年(1773)7月のもので、住職や若林村庄屋などが大堀村の大工半左衛門の請負のもと、雨漏りを修理したい旨、大工組頭である新堂組の平岡作左衛門に書類を出しています。
 この時の普請は部分的でしたので、のち嘉永3年4月には再建されることになり、住職や年寄らは西浦村の大工治右衛門と共に、大坂町奉行所に願い出ています。同年7月に上棟され、「鼓楼再三建棟札」として棟札が残っていました。瓦葺きで、1階は一間半四方の物置、その上階が太鼓の釣り場でした。
 太鼓は、住職が定時に地域の人々のために時報などを知らせるために打ったのでしょう。江戸時代のいつの頃か分かりませんが、南更池村(松原市南新町)の細工人仁兵衛と佐兵衛が皮の張替えを行ったことが太鼓に記されていました。
 今回の調査では、旧本堂内陣が内陣の奥に床の間式の仏壇が三つ並ぶ「三ツ並仏壇」から、後に本山・東本願寺のように、来迎柱を設け後門をつける「後門形式」へと改造されていることもわかり、立法寺の普請の歴史が明らかにされたのでした。

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