156 阿保・西徳寺の歴史

更新日:2018年12月13日
西徳寺の法要の画像

西徳寺の法要(2010年4月18日)
稚児たちが町内をお練りした後、近隣の住職たちが山門から本堂へ向かい、法要に参勤した(西徳寺提供)。

松原小学校初代・3代校長 千賀氏を生んだ真宗大谷派

 去る4月18日、真宗大谷派の西徳寺(阿保5丁目)の本堂と山門が再建され、盛大な落慶法要が営まれました。また、来年は宗祖親鸞聖人の750回御遠忌にあたりますので、あわせて御遠忌法要も厳修されたのでした。お寺では、これを記念して住職の千賀正榮さんが編者となって、『本堂山門再建のあゆみ』と題する立派な御本も発行されました。
 西徳寺は、寛政10年(1798)正月に記された「道場目録帳」や江戸期以降の覚書である「西徳寺常住物之覚」などによると、室町時代の永正3年(1506)4月の創立と伝えています。道入が、本願寺8世の蓮如に帰依して法名を与えられ、道場を建立したことが始まりです。江戸時代に入って、4代住職浄了の寛永9年(1632)4月に本尊の木仏尊像(阿弥陀如来像)が、本山・東本願寺13世の宣如から下されました。寛文6年(1666)には、東本願寺十五世常如より、2月に聖徳太子真影、11月に七高僧真影や宣如上人真影・親鸞聖人真影を下されています。
 この頃には、「河内国丹北郡阿保村惣道場西徳寺」の寺号も見られ、現藤井寺市沢田の極楽寺が上寺となっていましたが、本山との仲介をとったのは八尾御坊でした。
 ところで、新本堂の前に建っていた旧本堂は、10代了教が48歳の安政3年(1856)4月に上棟されたものです。その時の棟札「奉納棟札記」によると、阿保村庄屋の保田仁兵衛らから前年の安政2年11月に大坂西町奉行所に「再建願御免」が出され、新堂村(松原市新堂)の利助が大工棟梁となりました。
 利助の姓は、伊藤氏。融通念仏宗 の浄光寺(新堂三丁目)を檀那寺としており、先代利助と共に幕末に浄光寺本堂を再建したり、雄略天皇陵(羽曳野市島泉)の修復に際し、木製鳥居を造ったりしました(「歴史ウォーク」133)。
 棟札には、釈迦如来の金言とともに、天照大神の託宣も受けていると記し、本堂が神仏に守られていると考えられていたのです。
 同寺には、安政3年時の「本堂再建附込帳」も残されていました。そこには、御遷仏法要に参勤した岡の円正寺、河合の称念寺、田井城の陽雲寺、上田の願正寺・福應寺、新堂の良念寺、立部の栄久寺、西野々の西法寺、三宅の玉應寺や現堺市金岡、大阪市田辺、八尾市沼、大阪狭山市半田の寺々の名前が見られます。同じ阿保村の安養寺(阿保6丁目)や、明治時代に廃寺となった西照寺(阿保6丁目の阿保東部第一公園の東側)も法要のお世話を担っています。
 明治5年(1872)、小学校が誕生する前に郷学校と称する初等教育機関ができ、市域にも9か所の郷学校が設置されました。西徳寺も、そのうちの一つとなって生徒45名(男30、女15名)が学び、11代住職の千賀了雄が習字教師として教えています。明治7年(1874)、松原小学校が上田に設置されますが、同校初代校長は了雄の三男であった了彦が就任し、次男の了隆も第3代校長を勤めました。
 西徳寺の歴史の中で、千賀氏が地域の学校教育にも関わったことが知られるのです。 

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