191 善正寺蔵の教如ゆかりの品々

更新日:2018年12月13日

顕如上人像と裏書(文禄2年)

顕如上人像の画像
顕如上人像の裏書の画像

親鸞聖人像と裏書(慶長5年)

親鸞聖人像の画像
親鸞聖人像の裏書の画像

堺御坊創立に関する教如書状

堺御坊創立に関する教如書状の画像

本願寺歴代連坐銘

本願寺歴代連坐銘の画像

京都の真宗本廟(東本願寺)で4月1日~7日に開催された「教如上人展」に本品『本願寺歴代連坐銘』も出展された。

「顕如上人像と裏書(文禄2年)」「親鸞聖人像と裏書(慶長5年)」「3 堺御坊創立に関する教如書状」「本願寺歴代連坐銘」はいずれも善正寺蔵

本願寺歴代連坐銘と絵像 東本願寺堺御坊創立の書状

 本年四月、松原市域の真宗大谷派寺院が属する大阪教区の難波別院で宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌法要と、東本願寺を創立した教如上人四〇〇回忌法要が厳修されました。

 今回は、前号の栄久寺(立部一丁目)に続いて、文禄元年(一五九二)二月、本願寺十二世となった教如が、翌文禄二年(一五九三)正月二十六日に、天美北・城連寺村の善正寺(「歴史ウォーク」47)に下付した父の十一世「顕如上人真影」から紹介します。

 現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、もともとは真言宗で摂津の平野(大阪市)にありましたが、明応年間(一四九二~一五〇一)に浄土真宗に転じ、城連寺村に移ってきました。文禄二年に住職の順欽が教如に帰依したことから、教如が順欽に「顕如上人真影」を下したのです。その裏書に「大谷本願寺釋教如(花押) 文禄二癸巳年正月廿六日 河内国丹北郡天見郷城蓮寺村興正寺門徒 端坊下 願主釋順欽」とあります。この頃、善正寺の寺号はまだ無く、その上、同じ浄土真宗でも興正寺派に属していたようです。

 教如は、豊臣秀吉によって、十か月後の文禄二年十月、弟の准如に本願寺宗主を譲らされ、退隠することになりました。しかし、その後も教如は、本願寺の嫡流を主張します。

 慶長五年(一六〇〇)十一月六日、教如は善正寺の順欽に親鸞の絵像も下付しました。裏書には「本願寺親鸞聖人御影 大谷本願寺釋教如(花押) 慶長五庚子稔十一月六日 河内国丹北郡天見郷 成蓮寺村善正寺常住物 願主釋順欽」と見られます。善正寺の寺号の初見と思われます。この二カ月前の九月、徳川家康は関ヶ原の戦いで豊臣方を破っていました。

 二年後の慶長七年(一六〇二)、教如は家康の援助を受け、京都に東本願寺を創立するとともに、同年、本願寺の東西分派にともない、堺にこれまであった堺御坊とは別に、東本願寺の堺御坊(現難波別院堺支院)も創立するのです。

 慶長七年の堺御坊創建に関わって、九月十七日(年次不明)、教如が河内国の坊主衆中や惣門下衆中に協力を求めた次のような書状が善正寺に残っています。

態染筆候 仍堺坊之儀

取立候条 其國之衆各

馳走頼入候 就其連々

如聴聞各参會之時

相互信不信被談合

安心決定候て今度

の報土往生とけらる

へき事肝要候

猶下間按察法橋可

申候 穴賢く

九月十七日 教如(花押)

 河内国

 坊主衆中

 惣門下衆中

 また、十六世紀末~十七世紀初と考えられる教如筆の「本願寺代々」と題した親鸞から教如まで本願寺歴代十二名を墨書した「本願寺歴代連坐銘」も伝えられています。親鸞聖人を大書し、以下二代から三行に分けて十一代まで「上人」を付け、教如のみ「上人」をつけていません。教如が本願寺の嫡流を宣言したものとみられます。

 善正寺に与えられた教如による親鸞と顕如の絵像や本願寺歴代銘、および堺御坊創立の書状は豊臣時代から江戸時代初期にかけての本願寺の動向を知る上で、重要な資料でしょう。

 順欽は、元和二年(一六一六)に城連寺村から天美西の砂村(芝・油上地区)に寺を移しました。さらに、寛永十八年(一六四一)に今の天美我堂に移転したのです。現在、城連寺村の善正寺があった地には、同じ真宗大谷派の最勝寺が法灯を伝えています。

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