171 倉辻先生墓と千賀了雄墓

更新日:2018年12月13日
千賀了雄墓の写真
倉辻先生墓の写真

(右)倉辻先生墓(大堀1丁目・大堀墓地) 正面の倉辻先生の下に一文字が欠けており、側面も建立年に続いて月日が刻まれているようだが、実見できない。
(左)千賀了雄墓(阿保7丁目・阿保墓地) 明治前期、三宅小学校の校区は三宅・阿保・田井城・別所であった。

江戸後期の大堀筆子塚と明治前期の三宅小有志墓

 江戸時代中ごろから明治初期にかけて、武士や僧侶などが庶民の子どもたちに読み・書きを教えたところを寺子屋とよびました。寺子屋で学んだ寺子たちは、時には先生が亡くなるとその遺徳を偲んで、筆子塚と称する墓石を建てましたが、大堀一丁目の大堀墓地にもそうした一基が残っています。

 東除川に沿う墓地を入った右側に、無縁墓がまとめられています。その手前側、下から二段目に、正面に「倉辻先生」、右面に「文化八辛未年」と刻まれた墓が見られます。

 江戸時代後半の文化八年(一八一一)に建てられましたが、倉辻先生がどういう人かはわかりません。しかし、倉辻先生は大堀三丁目にある浄土真宗本願寺派の教専寺(「歴史ウォーク」124)で子どもたちに読み・書きを教えていた可能性があります。それは、のち明治初年以降に設置された初等教育機関の実態から、寺院との関わりが想像できるからです。

 明治五年(一八七二)、小学校が誕生する前に、郷学校が設けられました。当時、市域の多くは堺県河内国二十区に含まれ、同区では、池内村の敬恩寺(天美東)が郷学校本校と定められました。そして、阿保村の西徳寺(阿保)、三宅村の玉應寺(三宅中)、新堂村の良念寺(新堂)、更池村の教通寺(南新町)などに出張所が置かれたのです。

 やがて、翌年からスタートした小学校の場所を見ると、明治六年に布忍小学校が向井村の永興寺(北新町)、明治七年に恵我小学校が大堀村の教専寺、松原小学校が上田村の願正寺(上田)、三宅小学校が三宅村の善長寺と願久寺(三宅中)、明治八年に天美小学校が郷学校に引き続いて敬恩寺のお堂を借りて開校しました。

 そこでは、江戸時代以来、教育に関わっていた住職たちも教師となったようです。教専寺でも、当時の鷲原住職が恵我小学校で明治七年以来、教鞭をとっています。

 なかでも、住職が郷学校から小学校教師へと移るなかで、真宗大谷派の西徳寺十一代住職の千賀了雄は名前の知られた一人でした(「歴史ウォーク」156)。

 了雄は、弘化元年(一八四四)の生まれ。学問にいそしみ、東本願寺での安居聴講録や堺御坊での聴講録などが西徳寺に残っています。了雄は、西徳寺に置かれた郷学校(生徒45人―男30・女15)で、習字を教えていました。のち、明治八年(一八七五)からは、開校まもない三宅小学校の教員となり、長年にわたって奉職しました。ちなみに、了雄の次男の了隆も、父のあとを継ぎ、三宅小学校第四代校長や松原小学校第三代校長をつとめています。

 了雄は、明治二十六年(一八九三)十二月、四十九歳で亡くなり、翌二十七年一月、阿保墓地(阿保七丁目)の火葬場西隣りにある千賀家墓所に葬られました。墓石正面に「開発院釋了雄」、側面に「明治甲午年一月建之」と記し、台石に「三宅尋常小学校附属村有志」とあります。

 江戸時代の筆子塚につながる了雄墓は、三宅小学校で教えを受けた人々や保護者による顕彰の証ともいえるでしょう。

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