197 小川村における谷氏代々

更新日:2018年12月13日
谷氏の墓石の画像

谷氏の墓石(小川1丁目・小川墓地) 右は7代與次兵衛建立の「谷氏一族墓」(寛政7年6月)、中は3代與次兵衛の墓(宝永5年4月15日)、左は4代與次兵衛の墓(宝暦3年8月11日)。

秋元家より狩野常信筆「四季山水」の図
秋元家より「四季山水」箱書の画像
秋元家より「小川村庄屋 谷與次兵衛」宛の礼状の画像

秋元家より「小川村庄屋 谷與次兵衛」宛の礼状と狩野常信筆「四季山水」図と箱書(横浜市・14代谷和雄氏蔵)。

小川村氏子奉納の絵馬の画像
谷氏奉納の絵馬の画像

谷氏奉納の絵馬(右)
小川村氏子奉納の絵馬(左)

いずれも寛政5年(小川5丁目・深居神社蔵松原市文化情報振興事業団提供)。

正定寺創建・深居神社絵馬 秋元家下付の「四季山水」図

 小川四丁目の正定不退寺は、それぞれ西本願寺と東本願寺を本山として、本堂を共有しています。このうち、正定寺は寺伝によると、元禄六年(一六九三)に小川村の庄屋をつとめていた谷與次兵衛正長が創建したといわれています(「歴史ウォーク」196)。

 谷氏は系図によると、京都で室町幕府の管領家(将軍を補佐し、幕府の政務を総轄する家柄)であった畠山氏(源家)の流れをくみ、同氏が河内に進出したおり、畠山清光(慶長十五年・一六一〇没)が小川村に移り、谷姓を名のったと伝えています。

 清光の嫡男であった二代與三兵衛光長に男子がいなかったので、隣村川辺村(大阪市平野区)の池田氏から養子に来て三代となったのが與次兵衛正長でした。與次兵衛は宝永五年(一七〇八)四月十五日に亡くなり、祐願の法名を与えられますが、小川一丁目の小川墓地に與次兵衛の墓石が祀られています。

 谷家はのち、四代與次兵衛長綱、五代金兵衛義忠、六代與平次及順と続き、六代の嫡男である與次兵衛及哲が七代を継ぎました。

 正定不退寺から西へ向かうと、まもなく小川の鎮守、深居神社(「歴史ウォーク」37)が見えてきます。応神天皇を祭神とし、一間社流造りの本殿には万治三年(一六六〇)の棟札が保存され、市内でも江戸時代前半の建物として貴重です。

 また、拝殿には数多くの絵馬が掲げられています。とくに、「寛政五癸丑年仲秋中句  両所  氏子中」とある猪にまたがる烏天狗(京都の愛宕天狗)と「奉納  寛政五癸丑歳南呂中卯日  谷氏敬白」と書かれた馬にまたがる武人絵が目にとまります。寛政五年(一七九三)、小川村氏子と、谷氏がそれぞれ深居神社に奉納したものです。いずれの絵馬にも、「登雲斎巌□画」と絵師の名が記されています。

 寛政五年時の谷氏当主は與次兵衛及哲で、氏神社へ武運長久を祈って奉納したのでしょう。與次兵衛は、絵馬を奉納した二年後の寛政七年(一七九五)六月、父である與平次が安永八年(一七七九)六月に三十三歳という若さで亡くなったこともあり(法名祐誓)、「釋祐誓追善建立」とともに、「谷氏一族墓」として先祖の供養のため、墓石も建てたのでした。小川墓地に同墓石も現存しています。

 與次兵衛のあとは、次男の與次兵衛哲榮が八代を継ぎました。與次兵衛は、当時、小川村を支配していた領主の館林藩主(群馬県)、秋元志朝に弘化二年(一八四五)、多額の金銭を献上したようです。このため、長曽根村(堺市)の黒土陣屋で、河内の領地を監督していた館林藩士の郡奉行・普請奉行心得兼職である高取又右衛門らは、「小川村庄屋  谷與次兵衛」に狩野派絵師の狩野常信(一六三四~一七一三)が描いた春夏秋冬の「四季山水」図一幅を献金のお礼として書状とともに与えました。書かれた年月は、「辰」とありますので、安政三年(一八五六)正月九日のことと推察されます。弘化二年は、秋元氏がこれまでの山形藩主(山形市)から、館林へ領地替えされた時でした。

 秋元氏(当時は川越藩主・秋元喬知)は、すでに宝永六年(一七〇九)、領地となった河内巡見のおり、松原村岡の庄屋・松永家や立部村の庄屋・薮野家に立ち寄り、雪をいただく富士山と三保の松原を描いた常信の「富士」を下しています(「歴史ウォーク」128・152)。

 八代與次兵衛は安政五年(一八五八)九月十四日、七十三歳で亡くなり、祐貞の法名が与えられました。以後、幕末から明治後半に至るまで、與次兵衛の嫡男・次男・三男がそれぞれ九代・十代・十一代の当主となり、近代を迎えたのでした。

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