194 最勝寺恵学・大恵と咸宜園教育

更新日:2018年12月13日
最勝寺歴代住職の墓石の画像

最勝寺歴代住職の墓石

花崗岩製。最勝寺初代住職の順恵が近江(滋賀県)の人であったことなどが記され、恵学が建てたと推測される。

廣瀬淡窓の批圏になる沈徳潜の『沈帰愚詩鈔』 最終頁の画像
廣瀬淡窓の批圏になる沈徳潜の『沈帰愚詩鈔』  1頁目の画像

 廣瀬淡窓の批圏になる沈徳潜の『沈帰愚詩鈔』

〔右〕1頁目、〔左〕最終頁 文字の横に○(丸)や丶(読点)を赤でつけている。最勝寺蔵

安明寺  (天美北5丁目・最勝寺境内)の画像

安明寺  (天美北5丁目・最勝寺境内)

安明寺を最勝寺境内に再建 廣瀬淡窓のテキストで学習

 天美北五丁目・城連寺地区の最勝寺(真宗大谷派)境内に、安明寺が建っています。同寺は、南北朝時代に南朝の和田正遠の家臣城連寺安明が建立したと伝えています。安明が正遠の菩提を弔うため、聖観音を本尊とした私寺でした(「歴史ウォーク」42)。

 安明寺は、もともと城連寺村東北部の字新池にありましたが、宝永元年(一七〇四)に新しく大和川が付け替えられたことから、境内は川床となりました。このため、新池から西へ阿麻美許曽神社に東接する字松本に代替地が与えられたのです。

 寛保三年(一七四三)六月の『城連寺村明細帳』に安明寺が禅宗に属し、境内東西九間、南北十四間と記しています。延享元年(一七四四)十二月や寛延二年(一七四九)七月の村明細帳には黄檗派禅宗とありますので、江戸時代中頃には宇治(京都府)の万福寺を本山とする黄檗宗に属していたようです。しかし、明和元年(一七六四)七月に観音堂が火災に遭って、聖観音も行方不明になったのでした。

 ところが、嘉永年間(一八四八~五二)に旧地の新池を開削したところ、池中から聖観音が発見されたのです。村人は大いに喜び、そこで最勝寺の恵学・大恵親子(「歴史ウォーク」192・193)は、城連寺村庄屋の長谷川氏の協力を得て、最勝寺本堂の北側に並んで安明寺を移し、聖観音も祀ったのでした。

 恵学は、日田(大分県)の咸宜園で塾主、廣瀬淡窓のもと儒学や漢詩を学んだ経歴から、教化育成と共に、地域交流にも意をそそぎました。恵学は安政六年(一八五九)四月、五十六歳で亡くなりましたが、そのあとを継いだのが、天保十四年(一八四三)一月に家名を相続していた長男の大恵でした。

 大恵は文政五年(一八二二)十月の生まれで、天保七年(一八三六)七月、父恵学の紹介で堺に来ていた咸宜園二代塾主の廣瀬旭荘に入門して、学問を修めました。恵学もたびたび堺の旭荘を訪れ、何かと世話をやいています。

 このたび、最勝寺の調査で、淡窓が恵学に贈った五言律詩や手紙が見つかった他、大恵が使用したと思われる旭荘塾のテキストも寺に所蔵されていました。表紙をめくると、「淡窓先生批圏 沈帰愚詩鈔」と書かれており、旭荘の筆でしょうか。最終頁には、「河内   大慧主」と、大恵が自署しています。

日田市咸宜園教育研究センターのご教示によると、『沈帰愚詩鈔』は、中国・清時代の江蘇省長州出身である沈徳潜の詩集で、同書はその書写本と推測されます。「淡窓先生」が「批圏」、つまり批点のことで、『沈帰愚詩鈔』の要所や妙所を示すため文字の傍に点をつけ、その手本を門人に示したものです。それを旭荘がテキストに用い、大恵らが漢詩の勉強に使ったのでしょう。今回の発見は、淡窓の漢詩教育の一端を知るうえで、貴重な事例になると期待されます。

 大恵は明治時代に入ってからは地域の教育に力を入れました。明治六年(一八七三)六月、近代学校として、隣村・池内村の敬恩寺(天美東、浄土真宗本願寺派)に第八十九番小学(のち、池内小学校から天美小学校)が創設されました。この時、教鞭をとったのが大恵(桑原大恵)、ただ一人でした。

 同六年十二月になって、大恵は日中に小学校に行けない子どもたちのために、最勝寺に城連寺村夜学校も設け、その教師になりました。生徒は、二十名を数えました。翌七年五月、五十二歳となった大恵は第八十九番小学を退職し、夜学校の指導に専念するのです。

 最勝寺に恵学や大恵をはじめとする歴代住職の墓石が祀られています。咸宜園の教えに学んだ二人の僧は、地域の教育・文化面でも再評価されるべきでしょう。

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